若松敬竿さんを慕う、多くがウキフカセ釣り、二段ウキ釣法愛好者。その中に田中釣心さんも含まれているようで、釣心先生がウキ製造会社、㈱釣研を立ち上げる前の、前座が若松敬竿さんと覚えています。もちろん田中釣心さんも北九州市八幡黒崎で喫茶店経営者であり、ジャパンダイナミック黒崎の会長さん。月刊釣ファン、島本修一社長が立ち上げたヤング鬼笑会のメンバーに清水隆男さんも、田中釣心さんと同じクラブ。合わせて吉田〇〇さんも加わり、当時のジャパンダイナミック磯釣連合の強さを見るのです。しかし、ほとんど底物釣りメンバーが多かったのです。ダイナミック戸畑の高園満さんも本来、底物師。しかし何故かしらクロダイに魅せられ、ウキフカセ釣りの方向性に進んだのは、この事がきっかけかも知れません。若松敬竿さんイコール若松磯釣倶楽部も底物釣り師が多く、二刀流するメンバーが半数以上いましたから、会員数も40〜50名いた昭和時代でした。そのリーダーが福浦さんと若松敬竿さんと知ってはいましたが青年時代の私は、単に憧れを抱く存在の方でした。しかしながら、釣ファンの執筆者とし24才から始めた私。釣ファン創立者の河村博さん、二代目の島本修一さんのときが一番激しく動いたのです、上手でもなかったウキフカセ釣りで。月刊 釣りファーンが取材目的で「ヤング鬼笑会」が再結成されました。元の発案者である菅沼定一さんに向井吉夫さん、これに若松敬竿さんや執筆者の多くがウキフカセ釣り師。しかし活力が衰え社長も若い島本修一さんがなった事で「鬼笑会」から再結成された「ヤング鬼笑会」となり執筆者の若い20代〜30代が選ばれ、私も会員となり五島、四国、宮崎、大分、長崎の磯釣り遠征釣行が6年ほど続きます。必死で食らいついた私のような凡人。先輩の若松敬竿さん、田中釣心さん、高園満さん、菅沼定男さんの弟子達が、月刊 釣りファーン、ヤング鬼笑会を盛り上げてくれますが、私は後方で、すがるだけの釣り人でした。責任感の中で河村博社長の奥様から可愛がられたから?。それとも九州礒釣連盟とかジャパンダイナミックという巨大な組織の一員との関りをチョットだけ触れ合いながら助援してくれる大先輩に恩師がいたから付いていけたと想うのです。これが下地となり釣り人生が大きく変革してゆくのです。島本社長から田中釣心先生の手作り円錐ウキを6個貰った感動。発案者は若松敬竿さんのアイディアに、もう少し手を加えたウキ、色々ありました。6度ほど通った釣ファンの忘年会に新年会は会社の二階の室。大先輩達が、うじゃうじゃいる中、話しに加わる勇気が全く無い私。オマケに宴席。マイカーで来ているので酒は飲めないので尚更、引っ込み男。それでも九州礒釣連盟や北九州支部役員の和田さんに菅沼さん向井吉雄さんにヤング鬼笑会のメンバー、㈱ゴーセンチームの小倉浮竿さんに芦屋航空自衛隊の横井さんから私が今、釣ファンに書いているファミリーフィッシングの稿を大絶賛してくれる。「若い方は新しい釣りの形を作り、仲間を増やす事が大切」と教えられました。

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1980.4月 海洋磯釣俱楽部5周年記念大会 山口県黒井漁港 保里会長、45人参加