mujik ポール・モーリア (やすらぎの季節) No.09
2025.11. 私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」No.7


 短い秋から冬に入りそうな季節となりましたこの頃ですが、皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様には、毎日大変お疲れさまです。さて令和時代となり今年は早くも女性総理となる高市早苗さんが自民党総裁になられました。生活感が厳しさを増す世の中、私達シニア夫婦も活気から凡気なアクションに入り、行動範囲が狭く、活力の低下をしみじみ感じています。考える事は沢山あるのですが、若い方をリードするような元気ありません。しかし優しく、ソフトに親しみ込め、おもてなしする気力は今でも続いています。若者を元気づけ、励ます努力とか、出来るところでサポート、後押しできる立ち位置を明確にさせている私と洋子ちゃんです。その事で大まかなイメージで本誌を読んで頂けると嬉しいですね。さて、皆さんに元気を届けるのは、やっぱり私達が若いときのアクションでしょうか。共に歩んだ私の大先輩、藤崎好夫さんを語る事で若々しい時代で勝ち抜けた歩み紹介できます。
 私、19才で北九州市若松区浜町にある㈱吉田印刷所、勤める事になりました。小倉生まれで小倉育ちは、小倉祇園祭で勇ましい祇園太鼓を叩いた無法松で知られます。人力車で身を立てた富島松五郎が恋をした想いを、小説「無法松の一生」を書いた、岩下俊作の小説で有名になり、映画や舞台、村田英雄の歌でも知られています。その小倉育ちの私が、なぜか若松の会社に勤める事になりました。私が大人として、始めて人生のスタート地点となった所です。その事を何度も本誌で紹介していますが、切っても切れない縁が、ここ若松に多く残され、良き友、良き先輩、良き師匠に、会社と繋がる釣り人生の基点となりました。

1p北九州市戸畑と若松を結ぶ若戸大橋は昭和時代の観光資源でもあり若松の街を飛躍させた

 その良き若松で洋子ちゃんと恋をし、結ばれた事を何度も書きましたがハートブレークは、その事を助長させてくれた先輩、藤崎好夫さんです。先輩は勤め始めた会社の上司となる方ですが、釣り好きと言う事で吉田印刷磯釣倶楽部、結成した創立会員からスタート。
 社員180名をまとめながら会社経営を上手に活かしたい吉田正人社長が「親和会」というものを発案し、これを各職場の課長以上の方達で運営させるものでした。私が入社してすぐに親和会の活動が始まりましたが、原紙は会社持ち。ある意味、国政がらみの会社の福利厚生という名目で国からの助成金、税金対策として社員に使うお金は免除する法律ができたからです。その事で会社内で趣味のサークル、囲碁、野球部、そして釣り部ができました。私の直接の上司、空閑敏明さんは本誌、№2で紹介していますが、この方が釣り部発案創立者です。20数人からなる吉田印刷磯釣俱楽部 会長 萩原金安さんは平版機械場の大先輩。
 空閑さんは親和会の役員となる方ですから釣りクラブの会員で登録されました。そして、いきなり「上瀧が会計なれ」と指示されたのです。まだ21才そこらで、会社の事を良く知らない若者が、なぜ、そんな大役をくれたのか分かりませんが、ただ私にはマイカー通勤があり、釣り好きな人々と一緒に私の車で釣行していた事だと想います。この時代、マイカーを持つ釣り人はいません。会社の中でマイカーを持つ社員は私だけ。営業部の軽バンが5台に貨物トラックの運転手には免許証を持つ通勤者で、専務と社長だけが自家用車。大半の家族持ち社員は歩いて3分の社宅に住んでいました。若い女の子が多くいた事で、賑やかしい会社でした。3階建ての会社の1階が機械部。今度紹介する藤崎好夫さんは2階の活版製版部に所属していますが、釣りキチが多くいた社内で私が一番好きな内田さんも、この職場にいて時々、内田さんの隣りで活字組版をしながら魚釣りに多く誘われ、ウキ、フカセ釣りの直接的な指導を受けた師匠でもあります。そして釣り好きな藤崎さんが加わり山陰の波止に筑前大島の釣り良くしました。先輩とのお付き合いはこれから50年続きます。
 藤崎さんは私より10才年上の方。ケガで入院中、病院で知り合った奥様との間に、慶治君に2人の女の子がいました。空閑さん、内田さんと同じ会社の社宅に住んでいましたから、魚釣りは、このコンビが上手に重ね合い、互いのファミリーともお付き合いできた事になります。藤崎さんは私と同じ生真面目な性格で、夢やロマンを大きく持つ方でしたので、ある意味、普通人でない歩みをした方です。ただし吉田印刷磯釣倶楽部の創立会員から始まったお付き合いは、まさに釣キチ人生の歩みでもありました。

2p愛媛県佐田岬半島正野港、保里会長の愛車と右 藤崎好夫さん 益田、保里、哲、藤崎好夫さん

 マイカー通勤が始まると早速、空閑課長から宮崎県門川の磯釣りに連れて行かれました。このときのメンバーは先輩の中原さん。内田さんは右足が義足で、渡船場の波止釣り。
三人で始めて大ビロー島タツガ鼻の磯釣り、と言っても、初心者の私は磯釣りの知識なく、サンバソウに小グロ、黄色のチョウチョ魚と遊ぶ程度。師匠に先輩は石鯛数枚。納竿して波止に帰港すると、内田さんはクーラー満タンのクロにメイタ、アジ。入りきれん魚はビクに入っていたので、私のクーラーに魚が入れてもらえました。そして船長さんからオミヤゲの大きな伊勢エビを頂いて、ルンルン気分で若松へ。この話しが良かったのか、再度、門川の磯釣り。今度は空閑課長に中原、藤崎さん。同じ釣り場に入り、ハリス3号をブチン、ブチン切られる大物に、私のロッドにリールはボロボロ。その事を聞いていた藤崎さんは大グロ数匹ゲット。底物釣りはサンバソウも含めて7枚ほど。帰りの車の中で空閑課長が「あのポイントで60㎝釣るまで通うぞ」とか言うのです。釣仲間を変え、私のホンダN360バンは良く走りました。若松から延岡、門川の10号線は、まだ舗装されてない所もあり、山道に急カーブ多くあり、土曜日から行く深夜道。帰りも深夜22、23時は当たり前でした。それでも釣れるから行く、遠ーィ門川の磯釣りは、釣り初心者の私には無理があったようです。そのような藤崎さんとの釣行、多くあります。同じ磯釣でも、もっとハードな山陰、山口県川尻岬の磯釣り。こちらはマイカーを駐車し、空閑、藤崎、中原先輩の後について山下り1時間。そして釣り場は急斜面の磯。大波が下から、はい上がって来るような波の中「どうしてウキフカセ釣りできるーン」が最初のイメージ。
 地元の釣り人はアミカゴ遠投釣り。そんなロッドにパワーリール持ってない私。藤崎さんと私は、切れ込みのある湾ドで、何とかマキエしながらの釣りスタイル。3号の棒ウキで15m沖を流し、ボッコンの大アタリ、ポンピングして抜き上げるとイサキ40㎝オーバー。藤崎さんも続けてイサキ40㎝。湾ドにマキエサが溜まってくる中潮の満ち込み潮。ウキ下6m、15m沖は海溝があり20m以上の深さがある底物釣りポイント。今日は私達が釣りをしています。そしてメジナ35㎝、38㎝と近場の磯釣りでは考えられない大物が釣れる魅力。だから、アミカゴ遠投釣り人はデッカイマダイや、ヤズに石鯛。そして50㎝を越えるイサキにクロの大型が、この昭和時代は釣れていました。ただし、私と藤崎さんは基本的な、ウキフカセ釣り派なので、最後までアミカゴ遠投釣りはしません。イサキとクロを10匹ほどキープ、下げ潮に入り釣れなくなり納竿、空閑課長より早く駐車場までの岬を登る。
ハンパないほどキツイのだが、来るときのマキエサと同じぐらい魚が釣れたので、藤崎さん

3p
山口県長門市山陰の川尻岬と柱観音岬の磯が津黄磯に繋がる日本海の荒磯釣りは山歩き90分の片道

が「ジョーさん、釣りすぎたなァー」と弱音を吐く。でも、内心はホクホクの嬉しさ倍増。汗びっしょりかいて70分で駐車場。空閑課長から、もらった磯靴とライフジャケット取ると山風に潮風が混じり涼しい。藤崎さんは昼寝中。下から「オーイ」の課長。呼ばれたので100mほど下り、課長の背バッグを取ってやると「若いモンは元気がイイ」とかのホメ言葉も、内心はゴマスリ男の私。帰り道のドライブは油谷湾を見下ろすヘアピンカーブの連続。安全運転し、やっと国道191号に出ると、すぐの、うどん店で課長がおごってくれるランチは、大きなテンプラに玉子が入るウドンに、オニギリ2つ食べると、さすがに満プク。みんなが「すいません課長」とか言っても私は毎度の事。食べて、すぐにマイカーの釣り具整理し出発。ここから下関の関門トンネルまで90分は海岸通り。後90分の若松まで、隣りと後ろの3人はグウスカ、イビキが聞ける魚釣り。このようなハードな釣りを日常的にしていた私。若松の吉田印刷社宅に着くと子供達に奥様が出迎えてくれる。藤崎さん家は3人の子供が、いつも社宅前の公園で遊んでいるので、すぐに私達を見つけ奥様に報告すると、奥様が「ジョーさん、家でお茶でもどうですか」と、いつも勧めてくれる。藤崎さんの奥様は小柄だが人当たりが良く奇麗な方。もしかしたら洋子ちゃん以上かも知れない。ただし、この時代、私はまだ洋子ちゃんとの接点ない。だから独身者の若者は釣り仲間の奥様から親しみを得ていたと想う。要は、旦那さんが趣味の魚釣りでギャンブルしない、浮気しない、オマケの魚が食卓に並べられる平和な家庭が、それぞれに築かれ夫婦愛に家族の有様が身に沁み込むほど知る私でした。そのstageを洋子ちゃんと結婚し再現するのでした。
 藤崎さんには趣味というか、親譲りの天理教がありました。兄さんが天理教直方支部長。この事で藤崎さん紹介の井上、力丸、鹿屋、金原さんが海洋磯釣俱楽部に入会。更に奥様の、お姉さんも同じ宗教されてましたので息子さんの中西一行さんに誠さんが加わります。中でも中西一行さんは小倉住友金属に勤めている方で釣キチ。彼は普通乗用車を持っているので彼との釣行も藤崎さんを交え、宮崎県門川の磯釣り、大ビローに小ビロー、ブリバエにスズキハエ、色々な磯でウキフカセ釣り良くしました。中西さんと私は同じ年でしたので本当に気心知れた若者で繋ぎ合う事で弟の誠さん、一緒の釣行も多くあり吉田印刷磯釣倶楽部は社員以外の釣り仲間を含めて35人、6年続きました。
 そして私24才、洋子ちゃん19才で結婚したころ、藤崎さんは社宅を出て、高塔山のふもとに新築家を築き、吉田印刷所、勤めた中で一番早く自己の家を持つ方となりました。

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海洋磯釣俱楽部の家族慰安会は門司港レトロと遊覧船の藤崎さんファミリー2001.5..35人参加

藤崎さんの夢は自己の家を早く持ちたいロマンがあったのです。少々この辺のところから藤崎さんファミリーが変化してゆくのですが、もっと月給がイイ印刷所に勤め始めます。夫婦共稼ぎ等で私と間をあける事になったのですが、吉田印刷磯釣俱楽部も親和会からの援助が切れ、空閑課長が新しく一般釣り人を含めた釣りクラブを変えるプランで「上瀧、クラブの名前、考えれ」という事で、通いの浜屋釣具店に相談、ついでに若佐屋釣具店に矢野釣具店、伊木釣具店など、若松にある最も繁盛している釣具店で色んな釣クラブ名を調べ、最終的に洋子ちゃん発案の
海洋磯釣俱楽部となりました。この名前で16人が正規登録し保理剛太郎会長、運営を図るのが私、書記長でスタートしました。次の年、九州礒釣連盟が創立しましたので私達、海洋磯釣俱楽部も若松地区所属で創立クラブとなります。そして会員増強の次の年、藤崎さんに中西さん兄弟も加わり23名となり、藤崎さんとの関りが増々もって深くなります。先輩は生涯、車の免許を取らない方。奥様とファミリーが、それぞれにマイカー持つ事でアクションは困らないようでしたが、魚釣りは私か中西さんのマイカー利用でウキフカセ釣りはもちろん、海洋磯釣俱楽部の年間行事の長崎県西海市大瀬戸や崎戸大島のキス釣り、西海市大島でシロキス29.5㎝の藤崎さんの記録あります。又、平戸島のキス釣り良く通いました。投げキス釣りですが結構キス釣りは楽しめる事に加えて、美味しいキスが食べたい、こちらの方に比重が多くあったようで、中西さんファミリーと山陰長門市のキス釣りにクロ釣り。本当に私と同じウキフカセ釣りの磯釣りに、投げ釣りで遊びました。その事で私との釣行回数は海洋磯釣俱楽部ではトップテンに入ります。
 私が会長となった40代は会計をお願いし、娘さんの美奈ちゃんが会計の補佐してくれ、家族と家族の絆を、より深く築けた関係となりました。大分県津久見四浦の磯釣りから始まった昭和60年代は息子さん慶治君も磯釣りにハマり、釣り大会のサポート良くしてくれました。想い出の多い愛媛県佐田岬半島の磯釣りから正野港の釣りは1泊2日の釣りが多く、正野港の神社境内を民宿代わりに利用しましたから佐賀ノ関から九四国道フェリーにはマイカーと一緒の釣り仲間達で溢れていました。もちろん魚が良く釣れるから行くので36ℓクーラーが定番で、波止からのウキフカセ釣りのアジ、クロ、イサキ、チヌにヤズ、投げ釣りのキスやカレイの大型色々、釣り人が少ない港に漁師が港周辺にアミを入れない事で魚さんが大変良く釣れた時代でした。その真っただ中に藤崎さんと海洋のドラマが生まれるのです。私が原稿書きを多く始めたのも、この時で釣れる記事を書く事は本当に楽しい。釣り仲間に海洋磯釣俱楽部、九州礒釣連盟や支部、地区の大会プログラムが行動としてある事は、尚更、ペンを走らせること多大ありました。その後押しを藤崎さんがしてくれたのです。

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2001.5.海洋の家族慰安会 藤崎さんファミリー&海洋の若松響灘釣り場美化 右端私 隣り藤崎さん

 しかし、あるキッカケで藤崎さんの釣り人生を大きく変える事故が起きました。
釣りキチの長男、慶治君は仕事帰りの土曜日、半夜釣りで若松脇ノ浦そばの護岸から、夜釣りのメバル狙い。チヌの大型やアジの35㎝も釣れる慶治君のマイポイントです。しかし、2月の釣りです。次の日の日曜日、夜釣りに行った息子が中々帰ってこないので心配した藤崎さんが、多分この釣り場だろうの脇ノ浦の護岸は、県道から入ったすぐそばの、湾ドの奥です。行くと、やっぱり慶治君のマイカーありました。その護岸の角附近に息子のバッカンに、ロッドケース、タックルボックス、クーラーありました。しかし彼がいない。この日は天気が悪く沖はシケています。しかし湾ドの奥は少々の風に小雪混じり。釣り人はいませんから心配になり警察署に110番。パトカーと駐在所のポリス来て、周辺を探すのですが、いません。もしかしたら海に落ちた?、イヤ、道具も竿も、そのまま。事故より事件があった可能性もあるかも知れない、という事で若松警察署は両方で捜査が始まりました。しかし、暗くなったので捜査は明日に持ち越しの話しを藤崎さんから電話で聞きました。次の日、会社休みにして脇ノ浦の護岸に行き、消防署と警察署の合同捜査が始まりました。消防署からレスキュー隊が到着し、アクアスーツを着用した方達、18名が海に入り、午前、午後二度海底を探すのですが発見できません。若松警察署は事故、事件の両方から捜査を進め、会社関係から近所、そして釣り場周辺のコンビニなどで聞き込みありました。私も広い脇ノ浦埋立地の海岸線を磯ブーツはいて海辺、護岸を4時間探しました。
 でも、この日もアウト。明日から若松生活安全課から繋がる福岡県警のレスキュー隊が来て10名×10名の隊員が海に2度入り、ロープを張って丹念に移動しながら沖まで探すと、慶治君の磯ブーツが見つかりました。その事で慶治君は海に落ちた事に繋がります。この日は小雪が混じり北風が入る日でしたが親も必死、家族もです。夕方、レスキュー隊が海から上がり。明日もう一度、海に入る事を告げられ、日が暮れました。藤崎さんが「ジョーさん、家に寄らんねェー」と言われても、家族の事を考えたら甘える訳いきません」。そして、救助活動が4日目に入り、前日に続いて海から海上保安庁の船が二ハイも、海に潜ったレスキュー隊の保持を行っています。ゴムボートが出て海上から、陸上の大捜査が3日間続いています。でも、慶治君は見つかりませんでした。藤崎さんに交わす言葉は何もありません、話せないのですね。一人息子で可愛がったのに残念です。そして、今日で捜査は終了。後は海上と陸上からの目視からの捜査があるとの事でしたが、私達、脇ノ浦漁協の理事長に挨拶し、この件の話しを聞いてもらい、漁船組合員の皆さんが漁の出入りで見つけて頂ける事、約束して頂きました。

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2001,2.若松脇ノ浦埋立地の事故現場、福岡県レスキュー隊がアクアスーツ着替え海に入ります

 その8日過ぎた頃です。若松安瀬運河で釣人が沖で浮いている遺体を発見。その後、若松水上署、警察署から連絡が入り藤崎さんが確認し慶治君だと分かりました。2日置いて通夜に葬儀ありました。海洋磯釣俱楽部の仲間達が多く来て、藤崎さんを労わっていましたが、返す言葉が見つからないほど気の毒い。あんなに仲良しだった慶治君とお別れしましたが、海洋の会員として海の事故で亡くなった方、石松勝己さんに続いて二人目となりました。  悲しい定め。自然界と向き合う私達釣り人の有様に、もっと安全意識を高めないといけない事、多大あります。詳しくは私のホームページ「世界にたった一つの花」をご覧下さい。その後、藤崎さんとの釣行ありません。しかし「機関誌 海洋だより」→「機関紙サーフメイズJAPAN」を届ける事で友情は続いていました。釣りが少しに、畑で作物を作る事を趣味にしたのです。その事で、しょっ中、作物が贈られてきます「たまには遊びにこんね」から始まる先輩、後輩の家族ぐるみの付き合いありました。私が行橋に引越し、すぐに玄関に大きな五葉松、お祝いで植えてくれました。高価なものですが価値観分かりません。そして家族を二度、行橋に招待しました。洋子ちゃんが創作料理上手という事で、今でも奥様、家族からズーッとホメられ続けています。藤崎さんも若松高塔山から若松二島に引越しされ、新しい家で過ごされ、まだまだ畑作業が続くのですねェー。洋子ちゃんと二人、機関誌を持って行くと、必ずオジャマ虫なります。奥様や娘さんからのランチタイム、必ずあります。それで、この頃は、やや控えるようにしておりました。私より10才ほど先輩になりますから、健康を案じていましたが昨年、息子さんの元に行きました。海洋のOB会員としてのお付き合いでしたが、釣りクラブに参加できなくても家族と家族の付き合いができる事は互いに幸福です。でも、それがシニア世代になってくると寂しい場面が、しょっ中ある事、気になります。いずれ私もですが、このような文章を書き、家族の方が読み、ネット社会で繋がる釣り仲間に、海洋磯釣俱楽部との関係者、皆さんに報告できる事、感謝です。そして魚釣りの趣味を持つ方が増え、家族や職場、会社で多くの方とコミュニケーションできる事を期待します。そして藤崎好夫さんがリーダーとして始めた、釣り場美化、活動は海洋の基本的なプログラムを発展させ、釣界に多大な影響を与え「来た時よりも奇麗な釣り場」の精神は、まず私から、そして貴方からアクションを起こす事を、お願いしペンを置きます。愛神

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海洋は(公財)日本釣振興会タカミヤマリバー号を利用し30年間釣大会を兼ねて釣り場美化しました
















































皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様には、毎日大変お疲れさまです。












皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様には、毎日大変お疲れさまです。
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私の生き方を正しく教えてくれた 「先人の恩師、親友シリーズ」
    マイ.ライフの先輩、藤崎好夫さん


          海洋磯釣俱楽部・事務局 上瀧勇哲