| ポイントで。文字レイアウト。18で mujik ポール・モーリア (幸せの鍵) No.117 2026.1. 私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」No.8 1995.1.9.大分県別府杉乃井ホテルで左、洋子ちゃん。右、浦本津多恵さん |
| 皆様 あけまして おめでとうございます。本年もどうぞ よろしく お願いします。 今年も元気良く、最愛の洋子ちゃんと新しい年を迎えられた事、幸福です。 そして、本誌を読んでくださる皆様に、温かいお話しをお届けし、人生の歩み、優しさに包まれたファミリーを紹介します。私の父、母は育ての親、大人になるまで一生懸命、三人の子供を成人させましたが、そのストーリーは短いものでした。親離れした私は24才で浦本洋子さんと結婚し、北九州市小倉から若松区浜町で新婚生活を始める事で、親との関係に大きく間をあける事になりました。親から離れ、今度は私達が生まれた子供を育てる環境で、親という立場で人生の再スタートを切る事になります。結婚とは親との関係、ある意味、切る事で、私の生き方と、妻にする洋子さんを養う、子供を育てる、父親として責任を伴う義務があり、社会では当たり前の常識です。結婚とは互いの他人同士が結ばれ、親と離れ、生活ライフを共存し、生きて行くのは当たり前。しかも、生まれた子供は当然のように、私達は大人になるまでシッカリ育てる義務があります。妻となった洋子さんは私と一生、添い遂げる事で、親との関係を切られてしまい、法律での戸籍が、私の上瀧に変わるのですから、女性の立場は非常に辛いものがあります。男性と女性は立場上、凄くリアイティな関係となりますが、好き合った者同士、仲睦まじく添いとがれてゆくのが一般的な考え方です。 1p |
![]() 私が分かったような、分からないような文章書いているのですが、これは今から紹介する洋子さんの母、浦本ツタエさんの生き方、歩みを、皆さんに知ってほしいからです。私を生んでくれた母、上瀧良江、育ててくれた父、松義。二人の人生を後回しにして、私と洋子ちゃんを優しく見つめながら後押ししてくれた義母、ツタエお母さんに感謝の気持ちを残しておきたい、それに楽しい想い出、沢山ある事、1割ぐらい、皆さんに知ってほしいので、文章と写真で私達の、感謝のハートを紹介したいと想います。 始まりは洋子さんの兄さん、浦本英二さんが吉田印刷所に入社。私が魚釣りに誘い、その関係で妹の洋子さんを知る事から始まります。英二兄さんがキューピットの役割りを果たしてくれた事に尽きますが、二人の結びつきを後押ししてくれた事。そして、洋子さんの母、ツタエさんの出会いが始まります。 ツタエお母さんには兄の英二さん、妹の洋子さん、お父さんが早く亡くなり母子家庭でした。始めて洋子さんを知った時は彼女17才。2年間の交際は楽しみを多く演出してくれたツタエお母さんの愛情は、とても深く、優しく接してくれました。その時、ツタエお母さんのそばに、本誌№5で紹介した西野寿お爺ちゃんの存在が大きくありました。洋子さんと英二さんを親代わりとし、支えた西野寿お爺ちゃんが居たから、若い洋子さんと結婚できた、と想います。子供から大人になっていない私を、成人させてくれた、ご恩は忘れる事のできないストーリーが数多くあります。西野寿さんと重複する内容が多大ありますが、実の子以上に愛を込め、結婚までのストーリーを整えてくれたツタエお母さんに「ありがとうお母さん」。今でも想い出す、優しい笑顔忘れません。そして、ツタエお母さんが一番、気にしていた事は、娘、洋子が私の実家で生活しない事でした。しかし、これはクリアー。結婚すると若松の吉田印刷社宅で過ごせる事で、身近に若い娘、洋子さんと私を支える行動が、ツタエお母さんが身近に住んでサポートできた事でした。 釣りチキの私に、仕事の鬼と言われるぐらい、会社勤めは厳しい責任ある仕事量に、精魂尽きるぐらい張り切って頑張れたのも、大好きな洋子さんと一緒に居られる。それに英二さんと弟二人が釣り仲間で、しょっ中、遊びに来ていた事です。それに、何かにつけツタエお母さんと寿爺ちゃんの手料理を食べに行けた事、良くありました。 2p |
![]() 昭和50年に最初の子、裕美が生まれると、ツタエお母さんが真ん中で、娘、洋子と裕美を実家でお世話しながら、子育て教えた様子。私は安心して仕事に没頭できました。この事を詳しく書くと、限りなくストーリーがよみがえりますが、愛情の深さは普通人以上かも知れません。幸福な情景は、さらに二人目の息子が生まれた昭和55年まで続き、もうクライマックスのファミリーが私と浦本家にありました。若松で育んだ想い出ストーリーは限りなく続きます。ツタエお母さんは若松区の㈱植田製作所に勤めていたウーマンでしたから、社交的な母であり、若い娘、洋子に、私を子供のように育てた方と想うのです。このときツタエお母さんは40代。一緒に住んでいた西野寿爺ちゃんから学んだ漢文、漢詩を読み書きでき、㈱植田製作所では旋盤技術者のトップレベルの方です。 そのような母を知り、女性が活躍できるステージを昭和時代をトップランナーで走ったお母さんでした。私が知らない一コマを、お母さんから聞いてPRすると、洋子さんが小学3年生のころ父親が亡くなり母子家庭。仕事をしながら二人の子育てするのですが、限りなくエピソードありました、聞きました。洋子さんが中学生のころ寿爺ちゃんが定年となり、浦本家を支えてくれるようになりました。その事で私達夫婦は、このお二方による人生の歩みの基礎を学べました。その中から5つほどエピソードを紹介します。 ◎浦本ツタエお母さんの故郷は熊本県宇土市長浜です。宇土半島の有明海に面した地域で、国道57号線、西に行くと三角から天草に繋がりますが、その途中に長浜駅があり、この地域は浦本名が多い所で、親族の多くが住んでいる半農半漁で集落を形成しています。祖父母がお元気なとき、浦本家の初曾孫でもある裕美1才を、盆休みを利用してファミリーで行きました。ツタエお母さんの兄弟は5人、長男の諭さんが実家を継ぎ、次男の正人さんが北九州市若松区古前に住んでいましたので、正人叔父さんと一緒の故郷帰りも多くありました。長女として育ったツタエお母さん。妹の清子さんは、実家そばの松崎家。三女の玉枝さんは、長浜で伊藤さんと結婚され若松に住んでいますから、この三姉妹は仲良しで色々なエピソードがあります。 3p |
左、ツタエ母さん(長女)、中、玉枝さん(三女)、右、清子さん(次女) 40代ツタエ母さん ![]() 初曾孫を見せに行った一泊二日の浦本家のファミリー旅行。妹の松崎清子さんは長浜の海でアサリ取りや、海苔の養殖などしていましたから、アサリを卸している観光名所の天草五橋の高級レストランでランチ会誘ってくれました。皆で食べた天草名物のチャンポンはアサリ貝が多く入り、美味しかった想い出。又、松崎家でディナータイムに宿泊させて頂いた事。このキッカケから始まる4兄弟の天草詣が始まりました。釣りキチの私達。ツタエお母さんと洋子ちゃん、裕美を実家に預けて天草の魚釣り良くしました。この時代、やっと九州自動車道が部分的に繋がり、熊本御船ICまで利用でき、ひたすら57号線を走り、長浜まで5時間の旅行。釣りキチの私達は、更に天草市鬼池港のカレイ釣りは三人で80匹以上にシロキスの25~30㎝が入れ食い。40年前の話しです。天草の南、牛深には更に2時間の釣行も五月浦で哲ちゃん、キス31.7㎝でオール九州釣り選手権大会で優勝。私達もキスにカレイ、黒鯛等で優勝か入賞、良く釣りました。 みんなツタエお母さんと洋子ちゃんを実家に預けた釣行を兄弟で良くしましたね。 その間は、ツタエお母さん兄弟に、洋子ちゃんの従兄弟が8人揃っての遊び色々。 もちろん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、お世話係とか、ツタエお母さんが長浜の海で貝堀。洋子さんと裕美ちゃんは同世代の孫達と長浜の山や海で遊んだ色々、後で聞きました。ツタエお母さんが生まれ育った宇土長浜の海は黒砂で、シッカリした浜で干潮とき軽自動車が2~3K沖まで入り、アサリ貝を乗せ、回収し、2~3日、ドロを吐かせる水槽に入れ、漁協を通して長浜運送で大阪、東京に出荷されていました。又、海苔の養殖も盛んで、ツタエお母さんの実家に、海苔を乾燥させる機械あり、束にした海苔を良く頂きました。そして農業の米作りが盛んな地域で半農半漁の生活の中で長浜集落は浦本名の多さに驚きます。お婆ちゃんは宇土家に仕える武家の娘さん。お爺ちゃんが庄屋の関係で結ばれたそうです。ツタエお母さんのDNAは、お婆ちゃんとソックリ顔。洋子さんもお母さん似で、美人で賢い人柄。IQが高いのです。だから誰よりも早くワープロ、パソコン、スマホ購入し、上手に使い切る事しています。 4p |
![]() ◎本当は印刷所に勤める私の技術の方が凄いと想うのですが、時代の流れについて行けない会社は惨めな結末をします。その事で小倉南区志井に中古家購入、引越しました。私は早くから、アナログからデジタル文化を賢くとらえ、個人的に洋子ちゃんと時代の最先端にいました。吉田印刷所より早く時代の先走りをしていたのですが、会社という経営者の資質が乏しければ当然のように廃業の道をたどる事になります。その事で私はその気運を読み、勤続20数年で吉田印刷所を退職。そして独立した会社を考えましたが、ビジネスを始めるには資金が必要です。私なりに第二の人生を歩む夢を持っておりましたが、やはり資本主義社会で勝ち抜くには周到な準備とマネーが必要になります。夢を諦め、私を拾ってくれる印刷会社に再就職し、今があります。その間、洋子ちゃんとツタエお母さんに迷惑かけましたけど、ヤル気があっても不安定な生き方、子供を育てる。趣味の魚釣りにハマル事で生活ライフは安定した状況にありました。 ◎その中でツタエお母さんが長崎県大村市の見明直雄さんと再婚されました50才の頃です。プロポーズされて結婚し、大村市で第二の人生を送る事になったツタエお母さん、直雄さんから愛されているので人生これから。英二兄さんも結婚し、自由になったのです。その分、私達はツタエお母さんと家族のお付き合い、良くしました。毎月一度くらいは大村市に遊びに行く事、良くありました。子供達が大村市に行きたいコール、良くありましたので、私としては観光気分。そして、チョットだけ大村市内で魚釣りしました。 大村市から近い西海橋伊野浦通いも、このときから始まり、子供と洋子ちゃんを預け、弟と一緒に新聞、雑誌の取材目的の釣り良くしました。チヌ、クロ、カサゴ、マダイ、キスなどの魚を見明さんご夫婦に届け、早速、その魚でランチ会、良くしました。お母さんも、直雄さんも大の魚好きなので、サシミができる魚は何でもOK。これにアラカブの味噌汁が大好きなお母さん、大変喜んでくれます。二人の子供達は、お爺ちゃん、お婆ちゃんに甘えて毎日、大村市内の商店街でお買物に浜屋デパート屋上遊園地で楽しんでいます。大村湾から出る渡船でオランダ村にバイオパーク自然公園、良く通いました。 5p この時代、まだハウステンボス無かったのです。 |
![]() ◎大村城に大村神社、昊天宮、川棚町の八幡神社は見明直雄さんの職場です。 見明直雄さんは長崎県松浦藩、玉置家の次男の家系から繋がる西野家の6番目の末っ子です。先に紹介した西野寿さんは次男です。兄弟で繋がるのですが、直雄さんは見明家へ養子縁組された方で、大村藩お抱えの神主となります。その家系から直雄さんは戦前に台湾の高尾神社創建、最初の神主となられました。軍の支配下におかれた台湾、高尾神社は今でも利用されておりますが、ここで正臣さんと功さんが生まれました。この方達の接点ありますが、それよりもツタエお母さんのお話しです。 ◎50代を過ぎたお母さんは美人で有名。大村商店街でも人気者で町内で家族旅行していました。その写真あまりにも多くありすぎ。直雄さんも暇を見つけては、お母さんとツーショットありましたが、ご夫婦で私達の面倒を良く見て頂きました。何より二人の孫が一番カワイイとかで、当時、住んでいた小倉南区志井に三度も夫婦で来てくれ、私、北九州市の観光案内良くしました。子供達が甘える、お爺ちゃんとお婆ちゃんです。 ◎それでも、いつしか時が過ぎ、直雄さんは亡くなり、一人ぼっちのツタエお母さん。私達は、お母さんを迎え入れる為、志井の中古家から新しく総二階建てを設計し、小倉南区の大石建設で家を新築しました。大きな家の一階は和室8畳のお母さんの室。リビングに台所が一緒。2階は私や子供達の室に、宴会ができる室を作りました。お母さんを呼び込んで一緒のライフは1ヶ月ぐらい、でも大村へ帰ります。なぜか落ち着かないツタエお母さん。その1ヶ月の間に釣り旅行たくさんしました。趣味を兼ねて国東伊美港で45㎝の大ガレイをツタエお母さん釣りました。その帰りに赤根温泉、真玉温泉、えびす温泉。国東方面では必ず釣りと温泉と食事です。それも週末の日曜日。 ![]() 6p 洋子さんが着物姿のお正月もありました。ツタエお母さんが三つ揃えた着物です。 |
![]() 毎年のお正月は11月に大村に迎えに行きます。早速、若松の妹に次男の正人叔父さん家にオミヤゲのカステラ持って行きます。もちろん私達と、いつも一緒のプログラムです。そして裕美ちゃんの婿さんとクリスマス会。お正月は四角重箱5つ重ねるぐらいのド派手な、おせち料理をお母さんと洋子さん作ります。これは毎年の事です。三兄弟そろって、哲ちゃんが養っている母の実家にも。三人兄弟にツタエ母さん、ヨシエ母さんのツーショットに三男のファミリーもいて、賑やかしいお正月に、誕生会もあります。 ◎それぞれの誕生日にオハギを作ったり、勤めていた田中印刷所の行橋市長されていた田中純オーナーにも着物姿でオハギを持って挨拶に行く洋子ちゃん。驚いた様子の奥様でしたが、これも新しく勤める会社員としてのご挨拶色々です。この事がキッカケで私は信頼される工場長となりました。色々なエピソードあるのですが、ツタエお母さんの行動力は福がらみの幸福を呼び込む笑いにアクションがあります。なぜかしら人を引き付ける魅力に優しさ、加えてIQが高く、知的な性格で人の心を呼び込むパワーがあり、その事を表に出すことなく、心で受け止め、相手をいさめる事します。 ![]() 一言、二言の文言は短調語ですが、言い当てる事、凄く感じます。又、ユーモアも交えて笑顔が凄く素敵な女性像を表現します。このIQと知的な性格を、そのまま洋子さんに受け継がれています。二人とも子供から特別に好かれるのは何故でしょうか、私には分かりません。女性だから当然かも知れませんが、社会の中で、たくさんの女性を見ていると、その事が良く分かるのです。私と洋子ちゃん買い物に行きますと、小さな子供が、ジローッと洋子さんの顔を見るのです。すると彼女がニコッと微笑むと、もうその子は彼女の虜になります。手をつないだ親の手をはなし、洋子ちゃんを見続けるのです。 7p |
![]() もちろん公園でも、幼稚園に行っても、洋子ちゃんが何かに関わると子供達の輪が、そこに集まるのが不思議。本人は、ジャマくさい!! せからしい!! とか私に言いますが、現場を観察していると、そうでもない。子供から好かれて遊んでいる洋子ちゃん。もちろん、その中に孫の美優ちゃん、いますけど、このお話しは、もっと若い20代のころから始まっています。彼女は引きこもりタイプですが、それを外に出すのが私の役割でした。 ◎ツタエお母さんは、母子家庭で、子供を育てる事、48才まで仕事を続けた方です。 そして大村市で神主が仕事の見明直雄さんと再婚され、直雄さんと一緒の仕事は結婚式の神主が直雄さん、巫女の役割がツタエお母さん。夫婦で川棚宮結婚式場、きりもりしてきましたので、ツタエお母さんは今でも見明ツタエ名で、巫女で登録されています。そのような強いイメージのツタエお母さんは子供、孫達に、すごーく甘いのですね。 その性格かも知れませんが洋子さんは美人で、おしとやか、お姫様とか天使のような考え方する人です。そして男性からモテましたね彼女は。私は見てみぬふりするのですが、彼女の根っこは私だけが頼りとして、私をいつも前に押し出してくれるのです。その性格がお母さんそっくり。ツタエお母さんも一生、私を可愛がってくれました。とてつもないぐらい可愛がってもらい、最後の最後まで私を見つめてくれ、シッカリ手を握って、離してくれないぐらい、真っ黒い奇麗な瞳で私を見つめてくれるのです。 ◎私達は毎年の11月に開催される九州礒釣連盟BIG釣大会、平戸に必ず参加します。シロキスの部優勝とか準優勝。洋子さんか私、どちらか入賞する事ありました。その帰り道、必ず大村市のお母さんの元に行きます。シロキスのオミヤゲ持って。でも調理できない様子になりました。けれども私の目をシッカリ見て「勇ちゃん」と言ってくれます。まだイスに座って会話できる状況です。その一週間後、亡くなりました。大村市で葬儀。もう一度私の家で親族集め葬儀し納骨しました。最後の最後まで私を勇ちゃんと言ってくれ、真っ黒い瞳で見てくれたツタエお母さんの愛の深さ、この稿を書いている今でも涙が出て来てパソコンの文字が打てません。ツタエお母さんと100回以上、一緒に魚釣り行きました。そして釣れた魚を煮付けにし、骨までしゃぶり、最後は白湯を入れて飲みほします。昭和時代のお年寄りは魚さんを上手に食べ、骨だけ残し御馳走様、して箸を置きます。魚に感謝の気持ちを届けるのですね。 8p |
![]() 山陰萩、三見港でカレイにアイナメ釣りは大魚、早朝の中国自動車道路で雲海を見て感動の詩を書いた、お母さん。同じく長門市青海島のキス釣り、長崎県平戸市の釣りはサムスンホテル利用した家族旅行。海辺で孫と一緒にシーガラス、にキス釣り、平戸城に松浦藩記念館、色々。関門海峡の釣りは海洋磯釣俱楽部の月例会でコイチ57㎝ゲット他、元気している間は年中魚釣りに誘います。また別府の杉乃井パレス良く行きました。私と洋子ちゃんのプランですが、74才まで釣りしたツタエお母さん。孫の為に全日本少年サッカー大会の応援。北九州大会優勝。最後の370チーム頂点の福岡県大会優勝、そして全国大会の東京読売ランドは家族で応援、そして皆で始めて東京ディズニーランド行きました。息子の頑張りと、ツタエお母さんの後押し、あればこそ家族で行けたのです。あまりにも多すぎるツタエお母さんとの想い出。今でもお母さんの部屋二つありますが絵が上手、詩や刺繍を所狭しと飾ってあります。床の間に畳一畳サイズの掛け軸絵は、お母さんが書いたもの、その前に慈母観音像置いています。 ホームページ「不思議な慈母観音像」紹介しています。西野寿さんと浦本ツタエさんの遺言書となります。行橋に来る機会がありましたら、電話して遊びに来て下さい。もちろん釣りの話しなど、何でもOKです。その後、洋子ちゃんを後継者として看取り、戸籍を浦本ツタエに返し、北九州市若松ひびき霊園に墓所を築き、浦本英二兄さんの元で幸福になっています。ツタエお母さん、ありがとう。 洋子ちゃん・勇哲 ![]() 9p 最後まで読んで頂きまして、ありがとうございます。このページはホームページの「上瀧勇哲のホームスタジオ」から「先人の恩師・親友シリーズ」で紹介しています。 |
| 先人の恩師・親友 topページへリンク |
![]()
![]()
![]()