mujik ポール・モーリア (アイ・ライク・ショパン) No.5
2025.7. 私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」No.5


 夏日の季節となりましたこの頃ですが、夏の暑さに耐えた私の青春時代、その事を想いながら1970年代に出会えた人生の恩師、西野寿さんとの交遊を紹介します。
 私が成人式を迎えたのは1970年1月、北九州市小倉市民会館です。今はありませんが、小倉城近くの勝山公園内にあった市民会館は多くの演劇に学生達が開催するイベント会場となり北九州市を代表するエンターテイメントの舞台でした。今の市庁舎がなかった時代です。その勝山公園と市民会館には私の過去の想い出が数多くあります。詳しくは私のホームページ「小説、年上の人」「小説、車イスの家族」読むとイメージが出ます。
 さて、テーマの西野寿さんの祖父は長崎県平戸島生まれ。その曽祖父が松浦藩の殿様に仕える蘭学師範の玉置十郎さんで、殿様に勉学を教える立場の人でした。玉置十郎さんには二人の息子さんがいて、
次男の次郎さんが殿様の側室を娶り、西野家を継いだ、と歴史に記されています。その西野家と玉置家それぞれに由緒正しい文献が松浦藩、及び平戸市歴史資料館に残されています。この件は本文の中ほどで紹介します。では、なぜ西野寿さんを、ここで語るかは、私が北九州市若松、㈱吉田印刷所に通う事から始まります。

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 18才で普通運転免許を取り19才でホンダN360、軽自動車で小倉から若松へ通勤を始めます。早速、趣味の魚釣りで上司となる空閑敏明さんと釣行が始まります。社員180人の中で吉田印刷磯釣倶楽部を立ち上げた空閑師匠は会員30数人、会費を集めるのが私で、職場の親父、萩原さんが会長。私、ほとんど運転手役。私と同じ年の住友金属に勤める中西一行さんに弟の誠さん、そして私の弟や従の益田さんも入会させた会社の釣りクラブでした。人数が多いほど会社の補助金が頂ける事で、この時代は釣りが趣味の上司に先輩が多くいました。私が22才のとき営業マンで入社した浦本英二さん、私より二つ下の方で、背が高く顔立ちがイイ男。印刷物の配達が主な仕事で、静かなもの言いで、なぜか私に親しみを込め話しかけてくれる。それで強制的に釣りクラブに入会してもらい、彼を運転手役の魚釣りに誘い釣り仲間となりました。そして彼に妹がいる事を聞いたある日、彼を魚釣りで送迎したとき、妹に出会ったのです。可愛い女の子で高校3年生。一変で好きになり彼女の虜になりました。浦本英二さんと魚釣り、その都度、妹の顔が見られる嬉しさ。私は英二さんの妹、洋子さんにベタボレ。いきなり彼女に交際を申し込みました。まだ彼女は18才。恋心は恐ろしいもので二年間の交際経て3月16日には結婚式となりました。
 若松婦人会館で式を挙げ、新婚旅行は小倉井筒屋の日本旅行で長崎→雲仙2泊3日。その翌日には吉田印刷社宅の鉄筋アパートに住み、新婚生活を始めたのです。ここまでのストーリーは本誌で何度も紹介しておりますが細部は紹介しておりません。それは英二さんと洋子さんは母子家庭でした。ツタエお母さんは若松、㈱植田製作所で旋盤技術者のウーマンでしたが、その家族を支えていたのが西野寿さん70才、遠縁に当たる方です。

 西野寿さんと最初の出会いは、若松区用勺のツタエお母さんの住まい。国道199号線沿いに家があり、舗道は5mほどあります。4月の日曜日、洋子さんと初デートはホンダÑⅢの軽自動車で迎えに行きます。降りたすぐ家前の玄関を掃除しているお爺ちゃんが西野寿さんでした。おはようございます、と、チョットした挨拶を交わすと早速、玄関を開け「洋子さん迎えに来ましたよ」と声をかけてくれますと、家の中から「ハーイ」と洋子さんの声。すぐに出て来て「おはよう」。西野寿じいちゃんが「いってらっしゃい」と後ろから声を掛けてくれます。私、全く知らない人から見送りされている変な感じ。
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 家中に入ってないし、ツタエお母さんの顔も知らない、大丈夫なのだろうか不安。それでも、すぐに出発。初デートでツタエお母さんに、英二さんと顔を合わせてないのに、もう彼女との交際、認めてもらってイイのか不安。それに彼女は18才。私は23才。まだ大人になってない二人。初デートのいでたちは紺色のスーツが私。彼女は白いミニスカートに、白い長袖シャツ。長い髪から少しだけ甘い香りがして、前髪を眉毛いっぱいおろしているので目だけがクリクリ輝き、お人形さんのようで可愛い。その姿を見て、西野寿おじいちゃんが「行ってらっしゃい」親しみを込めているのが、尚更印象に残っている。
 その初デートは北九州市門司区めかり公園。桜ふぶきがあり、ツツジ色が少しだけ開花しているデートコースとしては最高の晴。優しい潮風が彼女の長い髪をなびかせている。
マイカーを、めかり温水プール前に駐車し、歩く、めかり遊歩道。このときは、まだ整備されてなく、めかり神社から白灯台までの遊歩道。上段の県道には関門トンネル遊歩道があり下関市に繋がるエレベーターに乗り、降りて1800m歩くと下関市へ上がれるエレベーターがある。ここからでも関門海峡の勇壮な潮の流れを見る事ができる。言葉少ない初デート。私は女の子は苦手。特に美しい女性には声を掛ける事ができない。会社の中では「上瀧は女嫌い」で通っているから、尚更、女の子と話す会話を知らない。年上の女性は向こうから話しかけてくれるので調子に乗りやすいのだが、年下の女の子とは会社で話しもしない私。しかし洋子さんは違う。将来、結婚を決めている私。好きになる女の子を見つけたら絶対、結婚すると決めている。中途半端なアクションは絶対にしない。これは先輩のプレイボーイと噂されている中西悦二先輩のような考え方。今日は関門人道トンネルから下関壇ノ浦公園と、めかり遊歩道、めかり神社前公園で終了。でも二人で座った、めかり遊歩道の階段ベンチから見る関門海峡の勇壮な景観は、青い海に遊漁船で釣りしているのを黙って見ている二人だった。

 そして、英二兄さんを通し二度目のデートは小倉駅平和通りの中央会館の映画「ある愛の詩」「白い恋人たち」「フレンズ」色々の映画館に食事を数度繰り返した私達。その後、英二さんと大分県蒲江や若松、山口県の釣りで大魚。魚を持って、やっとツタエお母さんと西野寿さん家に入れてもらえた。その事で洋子さんとの交際を公認されたと想っていたが、ツタエお母さんは結婚早すぎるとかで反対されたと聞いた。それでも正月に始めて私の家に来る時は、まさかの着物姿の洋子さんには驚いた。ツタエお母さんが着物を新調した、とかの可愛い振袖姿の洋子さんを始めて我が家に連れてゆくと父母が驚きの様子。奇麗な洋子さんを見とれていた。長男の私が始めて女の子を連れてきた事に驚いたのだ。3p     ただし弟、二人は魚釣りで洋子さんを知っているので興味なし。

人生の恩師、西野寿さんと私。40代の若い、津多恵お母さんが、いつも御もてなししてくれた。

 洋子さんの性格は気丈でありながら、ユーモアあふれる、おしゃべりが途切れる事ないと西野寿さんから聞いていたが、そんな事信じられない私。何せ私家ではお嬢様、無口。
 交際1年目は仕事に、魚釣りに、彼女に、すごーく忙しい、充実した1年だったが、2年目に入ると、私の気持ちを洋子さんから聞いたツタエお母さんは結婚反対。西野寿さんは「若いからイインじゃないの」。肝心の英二さんは「妹が煩いので早く結婚してよ!!」の感じ。そして洋子さんと西野寿さんに押され、ツタエお母さんが結婚を認めてくれたので、私の結婚準備がここから始まった。父、母は田舎者で何も分からないので相談に乗ってくれる西野寿おじいちゃん家に、出入りする事が多くなる。その事を歓迎してくれる西野寿さん。このとき70才ぐらい。西野寿さんは㈱若松三菱鋼業の営業、経理事務職を定年したので暇人。それで私達二人の結婚準備を、ここで教えてもらった。
 結婚するには、まず結納。それには〇〇が必要とか。仲人さんや結婚式場、色々あり何も分からない私。父母も分かっているが、相手方の様子伺い。何せお姫様みたいな女性が長男の嫁になる事が凄く重荷になっている様子。それで仲人は?、どうしょうか。
 そんなとき社員家族が180人ほど集まる
、正月恒例の会社新年会は丸柏デパート4階食堂を借り切って行う。吉田正人社長の定例の挨拶が終わり、食事会が始まる。社長の隣りに座っている麻生太郎代議士とヒソヒソ話しの社長。すると吉田社長か大きな声で「上瀧君、麻生代議士が仲人してやるとか言ってるけど受けるか」。エェーと私、結婚の事、誰にも言ってないのに「すいません、もう決まっていますから」とウソを言った。
そんな事もあり親戚の、元憲兵で今、理容院の益田勝叔父さん、ご夫婦にお願いした。

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 早速、西野寿おじいちゃんと相談し、北九州市小倉魚町銀天街にある茶屋で結納一式、装飾品を購入した。次の週は洋子ちゃんと一緒に小倉魚町、井上貴金属店で結婚指輪に、クリスタルガラスの腕時計を買った。チョット高価だが、この日の為に準備した貯金。
 そして西野寿さんが決めた大安の日の、結納の儀式。仲人さんご夫婦と一緒に浦本家に行くと大歓迎のツタエお母さんに西野寿じいちゃん。でもチョットだけ後悔するエピソードあるが、ここでは紹介しない。でも洋子さんと結婚から新婚生活を始めるまでのストーリーは必ず西野寿おじいちゃんから聞いた事を、そのまま実演し、できてない物は全て浦本家が援助してくれた。それも、これも、みんな西野寿さんのお陰があり、私と上瀧家、浦本家の絆が増々もって深くなり、教えられる事が、あまりにも大きい。

 1974年3月16日、私と洋子さんは若松婦人会館で和式の結婚式。60人ほどの簡素な披露宴。社長の代わりに柚木営業部長に、空閑課長に釣り仲間が少し、親族が半々に絞り込んだが洋子ちゃんの親友二人が振袖着物。浦本家は後で紹介する。そして、そのまま新婚旅行をしたので若松の吉田印刷アパート(社宅)に帰った、次の日、若松区役所に結婚届を出し、住民票を若松区浜町に移した。これも西野寿さんから言われた行動。
 次の週末は約束された上瀧家、実家で結婚式に招待できなかった親父の仕事仲間に、親戚、ご近所を招待する宴会。この時は事前にツタエお母さん、西野寿さんに言っていたので早朝、浦本家で洋子さんが着物の着付け、お母さんがしてくれ、そのまま小倉の実家に行くと、まさかの大宴席。父母が多くの人々を招待し祝福された。これには正直驚いた。私が全く知らない事で、母が全てをキリモリしての宴会は大賑わい。6畳三室に大勢のご近所さんが次々押しかけ、主役の私と洋子さん。床の間に席があったが奇麗な美女を見たい大人達。中でも親父の親友、岸野さんが「高砂や―」の歌?ってくれ、披露宴の最延長が始まった。若松婦人会館の披露宴はかたぐるしいものだったが、今、ここで始まっている席は本当の身内同士で賑やかしい。それに床の間にチョコンと座っている着物姿の洋子さんが大モテ。酒が入ると、どうしょうもないくらい盛り上がるのだが、途中で洋子さん
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を引き抜き、近所に連れまわった母。長男の花嫁を見せびらかしたようで三郎丸、婦人会会長、清家さんは母の親友に、私の同級生がいる所。そして町内に7軒ある白石家は私の親族に同級生。実家周りは親族が多く、みんな公務員に大企業に勤める方、それに校長先生。日頃から畳屋で商売している父は少々控えめで頭が上がらない立場。親族から支えられているのが弱み。しかし私の母は強い。若いころから強い親父に、牛島家長女で生まれ、下に4人の弟がいる。生活ライフは
ホームページで紹介している小説、竜人伝説と初恋で描かれている北九州市小倉守恒で育ち、曽祖父は佐賀、鍋島藩の武家。気丈な性格は後ほど紹介するが、今度は浦本家、西野家を紹介している。その母が、私以上に洋子を可愛がったのは娘が生まれなかったから。そして洋子にベタホレしたのは品格と、お姫様ポイ奇麗な女の子。彼女はまだ19才になったばかり。その子を連れ親戚に踊り仲間に彼女を見せてまわった。自慢の息子の嫁を見せたかったと想っている。このとき彼女と母の写真を撮っておけば良かったが、宴席で親族の誰かがストロボ、シャッターを切っていたので、後で頂こうと想っていたが、今になってはもう遅い。若いから、主役だったから、そのような細かい事、気づいてない。それにしても夜遅くまで宴席は続いたようだが上瀧家で、こんな事、始めて。自慢げの母が有頂天になった様子に、親父も酒を飲まされダウン。それに親父の親友、岸野さんには二人の女の子がいて妹は私と同級生。岸野おじさんと叔母さんは父と同じ畳屋さん仲間だが商売上手は月とスッポンの仲良し。いつも岸野さんに助けられている私達。岸野おじさんが「勇ちゃん良かったナァー」の一声が記憶にある。優しくてハンサム、背が高く、奇麗な奥様を私は良く知っている。書く事、色々あるのだけれども、上瀧家と妻、洋子さんの事、知ってもらい、話しを元に戻したい。

北九州市若松区藤の木駅を過ぎた国道199号線沿いに西野寿さんが住む古家がある。私達が結婚して間もなく、表札を変え、浦本ツタエになり、ここで一緒に住んでいる。
 洋子さんの花嫁衣装を着た白内掛けが、この家から出て、結婚式場がある若松婦人会館に入ったそうだ。みんな西野寿おじいちゃんのアイディアで進んだ結婚式。洋子さんはウエディングドレス着たかったのだが、式場が和式なので結婚披露宴で黒尽くしの衣装に着替えた。最初は赤。これもツタエお母さんと西野寿おじいちゃんのアイディアで美容師というか、髪結いの付き人が二人付き添いで、当時では最高の結婚式ができたと想う。
 ツタエお母さんの兄弟は5人で、実家は熊本県長浜、浦本家は皆、夫婦で来てくれた。
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ツタエお母さんは残念ながら、ご主人は早く亡くなられ、母子家庭だから、西野寿さんが親代わりで、洋子さんと英二さんの面倒を見てくれていた。その中に割って入った私。もう、ツタエお母さんの子供になっている私に、西野寿さんという、とてつもない人を、後で知る事になる。浦本家も細川藩の武家だが、西野家も松浦藩の武家で繋がる親族が、あまりにも多い。西野寿さんは6人兄弟の3番目と聞いた。後で登場する見明直雄さんは6番目の末っ子になるが、こちらは大村藩となる。その由緒正しい家系図資料が残っているので正しく説明できている。その西野寿さんは戸畑生まれ。昔、若松と戸畑の間の洞海湾に小島があった。その小島で育ったと聞いた。石炭で栄えた若松市の歴史を知る上で、小説「花と竜」を書いた火野葦平はペンネームで、玉井勝則。この時代を共に生きたのが西野寿さん。私と洋子さんの接点のときは70才を過ぎた頃で、寿さんの子供が5人、1人だけ女性は英子さんを後で知るが、息子達は何故かしら近くに住みながら近寄らない、不思議。その代わり、洋子さん、英二さんを自分の子供のように育てた。そして今度は私や弟達にも近い存在で遊んでくれ、私は西野寿さんの生き方に凄く魅かれた。初老の寿さんだけ知っているのだが、私達の結婚生活から、はみ出る色々な出来事たくさんある。イイ事も、悪い事も、あって当然。その紐ときを、寿おじいちゃんは本当に良くしてくれた。

 ハネムーンベビーができるので、早速、西野寿さんが知る、若松、倉内産婦人科医院を紹介してくれ、ここで最初の娘、裕美が生まれた。名前を付けるとき、やっぱり寿おじいちゃんに相談し、本を読み解き、字画で決める名前、簡単な呼び名がイイと私。洋子も同じ考えでOKで、すんなり決め、若松区役所に早々に届け出を済ました私。そして、生まれてすぐの若松えびす神社詣でに、上瀧家と、浦本家の初孫という宴席を仲人さんを入れて設けた。これも寿じいちゃんが音頭を取る。何も分からない私。でも聞いて知り、走りまわる私。生活ライフで分からない事は全て寿じいちゃんとツタエお母さん。そのときどきで、寿じいちゃんが招待してくれる食事会。和をもって得を取る、一番の分かち合いは食事会が一番。それに、美味しい食事は、みんな寿じいちゃんの手作りで、ステーキにスキヤキが多い。そして「ワッハハハ」の笑いが絶えない寿じいちゃんの話しで、なぜか盛り上がる楽しい食事会。最初は苦手だった、寿じいちゃんのユーモア溢れる遊び心に付いて行けない。その食卓に酒は無し。これは私にとって最良。私は酒が飲めない。それに話術が苦手で引っ込み思案の不器用。ある意味、生真面目すぎてユーモアのセンスもないし、
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話し言葉が上手にできない。その点、寿じいちゃんと浦本家の人々は柔らかくて話術が得意。ユーモアがあるし、ジョーク言葉が次々出て人々を楽しくさせてくれる。
だから、洋子さんは親に似てオシャベリ上手。上瀧家はかたぐるしく会話がないランチタイムだが、浦本家は全くの正反対。その輪にハマル私だが、中々みんなに付いて行けないから、寿じいちゃんから、その辺のところを正す事をユーモアを交えて教えてくれる。
 24〜25才の私は、まだ子供扱いされている感じ。でも、その方が気が楽と想っているが、現実には、そうもいかない立場だってある。しかし、寿じいちゃんの前では大人しい口下手の方が色々面倒見てもらえる。甘えを出す事で、好かれる事を良く知っている私。

洋子さんと浦本家を知るきっかけは、初孫が生まれてから始まる。ツタエお母さんの実家は熊本県宇土長浜に始めて私達の子供、裕美を連れ、英二さんと私のマイカーで行った。
 長男の浦本諭おじさん家には、おじいちゃんと、おばあちゃんがいて、初孫を見せた一泊二日の旅行。このときはツタエお母さんの妹になる、松崎清子さん家に宿泊し、こちらの、おばあちゃんからも「おめでとう」に、食事会に宴席を設けて頂き、浦本家ファミリーの挨拶を受け、趣味の魚釣りの話しで船釣りも誘ってくれた。この当時は宇土長浜、有明海の遠浅の黒い砂浜にアサリ貝に、ノリ養殖で豊かな海産物をドンドン出荷していた。そのトラック運転手から㈱長浜運送を引き継いだ洋子ちゃんの従兄弟4人と酒宴があったが、酒が飲めない私は、やっぱり彼達に付いて行けないハンディ。でも、これがキッカケで上瀧三兄弟に浦本英二さんを加えた、九州礒釣連盟 海洋磯釣俱楽部の、釣りキチ4兄弟の天草詣でが始まった。その原点が宇土長浜、浦本家と松崎家となる。

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 若者達は、すぐに友達になれる。魚釣りなら私がリーダー役で、親戚人を利用する利己的な考え方は母親譲り。これにプラス思考を教えてくれたのが西野寿じいちゃん。
社会で勝ち抜く為に、どう生きるかを一緒に生活ライフで知る事が早道。だから魚釣りは別テーマ。ここでは、社会で上手に自己PRする事を学ぶ。寿じいちゃんは若い時、㈱三菱鉱業の営業マン。海外出張の多くが中国、上海と香港で、レベルアップをこなした。それで酒より洋酒を好む。又、中国語から漢文を好み、カンフーではないが柔道は師範と聞いた。家中ではステテコに、ラフな服装だが、家を出るときはスーツにステッキ(ツエ)を持ち、若い時は英国の紳士スタイルのファッションを好み、その写真を見た。私のイメージは吉田茂スタイルだ。洋子さんが、お腹を大きくしたとき、何ゆえか宇佐八幡宮に英二さんと私のマイカーで行った。そのときのツタエお母さんは、まだ40代で、黒髪が奇麗で美しい人妻?。又、福岡県岡垣町のブドウ狩りと称して、上瀧と仲人してくれた益田ファミリーに、浦本家ファミリー、合同で遠足のアイディアも西野寿さんの考え。何かにつけ、あっち、こっち連れ回されている英二兄さんは私より二つ下の兄さんで、寿じいちゃんのお伴の買物に良く連れて行かれる、私もだが。寿じいちゃんと丸柏デパートで、大きな買い物する時は、必ず店員でなく、店長と契約する。若松、明治町銀天街の井上呉服店でも必ず店長と話し込み、値切って買物するのがセオリーで、この街で、元㈱三菱鉱業、経理部長の肩書から得るメリットは大きい。それで、出かける時はネクタイにスーツは欠かせないが、最近はツエを必要にしている。タバコはニコチンが多い「ピース」で缶入りを好む。時々はパイプを出してスパスパやっていると、すごーく貫禄があり、どこかのヤクザのじいさんソックリ。でも、コミュニケーションの和に入ると、おっとり、ゆっくりの会話に「ワッハハ」は必ず出てくる。それで寿じいちゃんと一緒のときは気分が物凄くイイ私。ツタエお母さんは技術職の旋盤工員として㈱植田製作所に勤務している。㈱吉田印刷所を退職した英二兄さんは㈱新若松機械にスカウトされ、二交代勤務になった。それで昼間、西野寿さんと色々、付き合わされるそうで、その中に私達の用事も多く含まれている事を洋子さんから聞いた。それで浜町にある吉田アパートから赤島の実家に良く行く私達。今日は山口県の萩に一泊二日の旅行プランしているとかで、お付き合いされた。川棚温泉とか長門温泉色々。恒、日頃からお世話になっているので絶対にイヤとは言わない私。洋子さんも20才前後で遊びが出来てないので、これを機会にツタエお母さんを交え、遊び心が多すぎるぐらい、西野寿爺ちゃんとの、お付き合いが5年ほど続いた。

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 そのライフの中で得たものは多くあるが一番のヒットは誕生会。クリスマスケーキぐらいは庶民的行動かも知れないが、誕生会は上瀧家の中では存在しない。それも洋子さんとお付き合いを始めた、ときより招待された誕生会。丸いケーキがあり食事もある。その後、コーヒーか、お茶タイムの中に話しが多くあり、その真ん中に、いつも西野寿爺ちゃんがいる存在。それで2月生まれの私と洋子さんの合同誕生会。裕美が生まれ最初の誕生会が1月、続いて3月3日の雛祭り、この時もケーキがある。英二さんもツタエお母さんも、寿爺ちゃんもあるので、しょっ中、お祝い会がある。その度に呼び出される私達。でも洋子さんが、その誕生日に食事の準備で手伝いされているので、結婚してからツタエお母さん、寿じいちゃんと料理教室しているので段々と色々なメニューがドンドン増えてきた。そして正月のおせち料理、これは凄かった、全て手作りなのだ。結婚前の正月、津多恵お母さんから招待の浦本家、西野寿爺ちゃんと、お母さんの手作り料理は重箱五段飾り。早速、寿爺ちゃんが、形だけのお神酒は三々九度の練習とかで、チョットだけ頂いた。正座して。何とも凄い料理に洋子さんも加勢したとかで本当に家族になれるんだ、と感動した。それよりも上瀧家には存在しない正月料理。寿爺ちゃんが
日本人の御もてなしの心は食文化と優しさを兼ね備えたコミュニケーションで商売繁盛に営業力が加算されるとか。
 そして弟達が週末になると若松にやって来る。主な目的は魚釣りだが、集まりの要因は彼女と裕美ちゃんが目的。そして今度は海洋磯釣俱楽部の釣り仲間から、更に釣りで繋がる人々が集まってきた。チョット酷い事になっているが人が集まる事は良いが、ランチ、ディナーの準備に買い出しが大変の洋子ちゃん。それに出費がかさむ。これがホンネ。

新婚ホヤホヤの時は完全な金欠だったが裕美が生まれ、5年後には真一が生まれた。この頃になると少しくらいは余裕が出来ているが、私は責任ある立場の職場で、必死で会社の為に頑張った。残業も多く、良く働いた。給料袋は、そのまま洋子さんにヤルのだが、別の副収入は釣りの原稿料が私の小遣い。これは全て魚釣りで消えるが、やっぱり足りない趣味の魚釣り。随分迷惑をかけた洋子さんに。そして西野寿じいちゃんが、この頃より遊びをやめ病気。洋子ちゃんが、ちょくちょく実家へ帰った。そして終演のときを迎えるのだが、寿じいちゃんは神信仰。床の間に一畳ほどある神棚の祭殿前で仏になった。
私達夫婦を最後まで優しくお付き合いしてくれた方から、たくさんの、ご恩受けた印がある。寿じいちゃんは死を前向きに考え、前々から準備していた遺言書に、私達にプレゼントしてくれた慈母観音像。そして若松、石峯山ふもとに公園を兼ねた西野家の墓所がある。桜の名所で、この地を訪れると懐かしい。ワッハハの笑い声がいつも聞ける場所だ。
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               西野寿お爺ちゃんの遺言(:原文のまま)

上瀧勇哲・洋子様

爺が長生きして、大変お世話になりました。
有難う、御礼申し上げます。

実子以上に温情ある行為、旅行、御馳走、
心からの御土産など感謝の外ありません。

洋子さんを、友白髪までよろしく頼みます。
気の強い面はあるが、あなたを心身共に、したい、頼りにしています。

裕美ちゃんの幸福を陰ながら祈ります。
洋子さんには筆舌に尽くせない御世話になりました、有難う、有難う。

私が亡き後、母さん「ツタエ」の力となって下さい。
尚、英二君の良き相談役とも頼みます。

小倉のご両親始め、哲郎さん、周作さんへ、様々御世話になりましたと、
あなたより、よろしく御礼を申し上げて下さい。

あなたは上瀧本家の跡継ぎですから、将来共に忙しいことが多いでしょう。
一生懸命がんばって幸福なる一生を過ごされますよう祈ります。

爺、最後の言葉として遺します。

 爺 西野寿           1980.5.19.



16pの小説は、西野寿じいちゃんと西野家の話しが真ん中。洋子ちゃんと西野寿さん。
ホームページ、上瀧勇哲から「不思議な慈母観音像のお話し」ご覧下さい



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