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mujik ポール・モーリア (天使のセレナード) No.2
2025.1. 私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」 2
皆さん、こんにちは。そして毎日のお仕事、大変お疲れさまです。
さて、先人の恩師・親友シリーズ、第二作目を紹介いたします。その中で戦後の昭和時代をチョットだけ知る必要があります。私は1950年生まれです。戦後の高度成長時代の、真っただ中に育った私の環境は非常に厳しい時代でもありました。中学卒業と同時に都会へ就職した同級生が2割いました。私は運良く近くに高専がありましたので、国の保護下に置かれた学校で理系の勉強ができました。19才で就職した私の青春時代は「貧乏暇なし」と言うことわざ通り、毎日仕事に追われ無我夢中でした。180人あまりの会社の中で本当にコキ使われました。それでも、それに見合う報酬がありましたから頑張る事ができました。当時の労働基準法は週6日出勤、48時間労働で日、祭日が休み。有給休暇は年7日、プラス勤続年数により最大28日ありました。そして毎月の残業時間が平均80~140時間、プラス、日、祭日出勤は当たり前のようにありました。それで課長に事前に休暇届が必要です。その代わり私の仕事が先輩、仲間がする事になり、迷惑かけますから中々できなかったですね。オマケにオールマイティーの仕事は工員、営業、配達、何でも出来る私は本当にアッチ、コッチの職場課長から誘惑、イヤ、会社命令ですから仕方なく忙しい職場で更に残業が多くありました。その事で残業の賃金が基本給より高い事が多くありましたね。今では考えられない猛烈社員と言われたこの時代は、当たり前のように社会全体に根ずき、若い私は会社の忠誠心溢れていました。その会社で教えをこうた方が、空閑敏明さんでした。さて、洞海湾そばの会社に勤め始めた私に、早速魚釣り教えてくれたのが職場の親父と言われた萩原金安さんと先輩の中原さんでした。若松の脇田港から入ったトモロビーチと言われる砂浜がある絶景の釣り場です。今は脇田海釣り公園に繋がる海水浴場として、投げ釣りでキスが釣れる好場です。19才の私。軟らかい竿でフルキャストして40mぐらい。
2024.北九州市若松区洞海湾と若戸大橋、奥に若戸渡船。1971.10.空閑師匠と筑前大島灯台下磯釣り
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これでキス、ベラ、クジメを10匹釣り、弁当を準備してくれた親父にプレゼント。
この当時は若松響灘の遠浅のゴロタ浜にビイナ、アワビ、サザエ、ワカメがビッシリ、濃い緑の藻の海岸線があり、今の脇田行きのバス道路下は奇麗な遠浅の海岸線が脇田港まで続いていました。その事で釣り人が多く、この浜から投げ釣りやゴムボートで25~29㎝もあるキス釣り、根魚釣りでは、ミャク釣りでカサゴにハタ、クジメが100匹、150匹は当たり前の時代でもありました。当然のように会社の釣り仲間が多く、日曜日は魚釣りや磯遊びする環境がありました。但し今のようなルアー、ジグなんて釣具店にはありません。全てが生エサ、活きエビに虫エサです。その事で私はズーッと生エサ派。活きた虫エサを使う投げ釣りに、池や湖で取った藻エビから、やっと冷凍ジャンボアミが入荷する時でした。その後のオキアミは10数年先の話しになります。その中で始まったウキフカセ釣りはジャンボアミの普及で急速に磯釣りブームが始まりました。

1970年 宮崎県門川沖の大ビロー島タツガ鼻の石鯛釣り空閑課長。松田渡船と㈱板橋社長と奥様。
まだ昭和40年代。私が釣りを始めた頃です。この時が第一期、黄金時代と言われます。
会社に入ったばかりの私は20代にかけ、そのジャンボアミ汁だらけになりました。
始めて買った軽自動車ホンダÑ360に、早速、空閑課長から声かけられ磯釣が始まりました。4人乗るので「荷物が入らんケ、セメント袋入りのジャンボアミを車の上に乗せれと言われ」スキーキャリアを取り付け、宮崎県門川町、庵川港の松田渡船に着いたら、ポタポタアミ汁が溶けてきてマイカーのウィンドゥに付いているのですねェー。こんときは港で積み荷を全部おろし水道ホースで先輩がマイカーを洗ってくれました。松田船長さんがマキエを入れる丸いオイル缶を4つ貸してくれ、その中にジャンボアミ二袋を四等分し、瀬渡しで小ビロー島に上磯しました。ビチャビチャのジャンボアミをマキエ柄杓で撒くと小魚が、熱帯魚がワンサカ。その中に型の良いグレに、回遊してきたヒラアジ。これが釣りたかった先輩に師匠です。皆でドンドン撒き30~35㎝グレにヒラアジが入れ食い。私はハリス3号、道糸5号の太仕掛けですが、何ゆえかブチーンとハリスがブチ切れ続出の大型グレ「上瀧、おまえが使っているハリスどこで買った?」「スーパーの安売りで買ったもの、だからナイロンハリスが弱い」師匠と先輩は銀鱗3号を使っています。この時代、フロロカーボンの糸はありません。もちろんPEラインは30年後。15年後にやっと東レからフロロカーボン糸が発売されましたが、釣りの初心者が多かった釣り人3000万人いた時代です。魚を釣りきらなかった私に、空閑課長から11ℓクーラー満タンのグレとヒラアジ頂きました。そして松田船長さんから毎度頂ける伊勢エビに、フカシ芋饅頭が美味しかった。今度紹介する方は私の恩師、空閑敏明さんです。魚釣りでも、仕事でも、洋子ちゃんと結婚するまで、独身の私をズーッと見守ってくれた方です。
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昭和44年3月、高専を卒業したときクラス長を2年勤め、一番の成績で卒業した私をクラスの金丸先生が北九州市若松区の吉田印刷所を紹介してくれ、吉田社長と面接試験で、金丸先生がイイ生徒だからと、給料が決められました。金丸先生が私の担任。島津先生は2年生の担当でしたが、マイカー勤務しているので、若松に詳してとかで小倉の学校から送迎してくれました。このときは特別なあつかいを受けた事、私は何とも想ってなかった子供です。
午前中に吉田社長に会い、少しの話しで採用されましたが、社長が「上瀧くんは、会社の営業から、各職場全部を知ってもらうので、そのつもりで来てくれ」とかで、新人社員で営業部と同じ給料が頂けるとか。1時間ばかり二人の先生と私に、社長とコーヒータイムにショートケーキまであった入社試験?。卒業式前の春休みから会社に出勤するよう求められられた私。それで3月から出勤の私のタイムカードがありました。そして、最初は工場の全てを学ぶ訳ですが、吉田社長が、まず平版機械課の空閑課長を呼びつけ対面で紹介を受けます。
私 「小倉から通う上瀧です。よろしくお願いします」
空閑課長「平版機械課の空閑です。ハードな仕事を覚えてもらうので、何でも相談して下さい」と紹介されました。早速、会社から支給された上下の作業服を着用し、一階の工場へ。平版輪転機が4台に、手差しで印刷する機械が5台が工場の半分。後の半分は活版機械が10台以上。その隣りで印刷物を本にしたり、伝票とか三菱化成の日誌にラベル、丸柏デパートのポスターからチラシ、若松信用金庫の証券から若松ボートの舟券に、市役所の印刷物が山盛りに、四六全判の紙を次々切る、断裁機が2台に折り機、等々、製本工場を案内。

1970年会社旅行で、左端、下が私、上が空閑課長。蒲江港の釣りと渡船の娘さん。洋子ちゃん20才
◎人の良さそうな空閑課長は、福岡県柳川工業高校を卒業して北九州若松に来て、この会社を選んだとかの技術者。そして平版機械課には12人の技術者がいて、若い30代の方が多い男性だけの職場。空閑課長さんも40代で、現役バリバリの職場の中で、今から私が会社という新しい社会に出るスタート地点に立ったのです。仕事を教えてもらえるのは先輩12人の人々から、色々な仕事のサポートから始まります。スタートときは優しく教えてくれる先輩達でしたが、数ヶ月すると、あっち、こっちから「上瀧ー」と呼びすてされる重労働でした。しかし、仕事のヤリ方を全く知らない訳でもない、高専で学んだ事がいかせる職場です。だから半人前から一人前になるまで3年はかかる、とか言ってくれる最年長の萩原さんは、私の父と同じぐらいの年令で、仕事を良く教えてくれました。その相方に竜野さんという主任さんは無口でコツコツ仕事をしながら、優しく小さな仕事を教えてくれる。その隣りで一番若い浜部さんは、私より3つ年上の先輩で、機械を上手に扱うし皆から好かれている一番のトップスター。その中に私が入り、若者同士として良く声をかけてくれる先輩です。
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浜部先輩は、今でも釣り人としてお付き合い出来ている本当の先輩、親友となった最初の出会いです。そして平版機械課をまとめる空閑課長を接点にし、会社の色々を学んでゆく訳ですが、何も知らない社会人としての学びは、まず会社、社員として認めてもらえる為のベースを空閑課長から優しく教えてもらえた事です。もちろん会社以外の色々ありますが、まずは趣味の魚釣りから始まる様々な交遊を、学びとし、多くの人々の中に勧誘してくれた空閑敏明さんとの、親交を紹介します。

1972年会社旅行、左端、皆から好かれた空閑課長。筑前大島波止で、空閑敏明師匠。洋子ちゃん19才。
私の生きる糧を教えてくれた恩師、㈱吉田印刷所、平版印刷機械課長、空閑敏明さん。前記したような最初の出会いは、フラットしたインパクトの少ない空閑さんでした。それは、若者を取り込む戦略的な糸があったと想います。なぜなら印刷所という世界感は汚い作業に加え、油とかインキまみれ、重い印刷紙を機械に積み込み、美しい印刷をする為の技術が、全てアナログ的な、微細な仕事が要求されていた時代です。特に皆さんが手にしている雑誌とかチラシは、ほとんどカラーで美しい色でアプローチされていますが、昭和40年代の印刷は全てがアナログ。人間の技術がなければ、そのようなカラー印刷など、とんでもない。
当時の朝日、毎日、読売、西日本新聞からスポーツ紙まで含め、カラー印刷を使った新聞は完全にありませんでした。又、雑誌や書籍においても色が使われているものは人間が描いた作品に、グラビア印刷で、それを、そのままカメラ撮りされ、同じようなインキで単色、もしくは多くの色を重ね合わせて印刷されるものがほとんど。駅前に貼られている大型のポスターとか、映画館前に絵がかれている色あいは、絵を描く職人さんが描いたもの。
昭和時代が終わるころ、やっとカラー印刷が始まりましたが、まだまだアナログ。手作業方式で紅、藍、黄、墨の4色をアミとり。詳しく言えば線画でカラーフィルム原稿を4色分解し、アミ入れ、各色別に55°、65°、75°、85°のアミ線を入れ、フイルムから版に焼き付け、その版を印刷機に取り付け、4色のインキで印刷すればカラーになります。しかし、上手に印刷ができてこそカラーに見えますが、ズレた色が多くありました。新聞や雑誌でも昭和時代の写真は恥ずかしいぐらいの印刷カラーでした。その上で古い書物、雑誌、新聞であればルーペ(虫メガネ)で見れば、写真にアミ目が入っている事、知っていますか。
これが私が言っているアナログ時代の印刷方式なのです。デジタルはテレビやパソコンの映像が乱れているとき、長方形した口角に色が付いていますね。これがデジタル。小さな1角、正方形に色の数字が刻まれ10数万色の色がデジタル化され、数字で色の表現ができています。この角目が小さいほど映像が微細で奇麗です。この原稿はプリンター方式です。
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テレビの2Kから4K。今は8Kが宇宙の人工衛星から電波で送信され、私の家の玄関、名前が分かるほど精巧になっています。このデジタル革命で、ほとんどの印刷所は消えました。少しばかり印刷技術の革新を紹介しましたが、私が必死で印刷技術を学び、一人前になるまで教えをこうた10年間、私と空閑敏明さんは仕事の恩師であり、釣り趣にとっても始めて磯釣りを教えて頂いた師匠でもある方です。加えて人間関係で生きるすべを、あらゆる情景を入れ、直接教えを頂いた空閑課長さん。その方が、わずか8年間で去ってしまった事を、もう一度想い出し、師匠の人間像をもう一度ここで紹介しています。空閑敏明さんは、初代の社長から㈱吉田印刷所の印刷機械課で勤めていた方で、当時の平版印刷機械は最先端の輪転機で、精密な時計を作るヨーロッパのスイス、時計と同じような精密印刷機械も作っていました。昭和時代で1億円もするスイス製のパールという機械を吉田印刷所が命運をかけ2台購入しました。まだ私が入社する前の4年前です。㈱吉田印刷所は北九州市では№4番目ぐらいの印刷所で、門司の隆文堂450人。小倉の天地堂印刷所が350人。八幡の太平印刷が300人。そして若松の吉田印刷所が180人。そして政令都市、北九州市が若松、戸畑、八幡、小倉、門司が合併して105万人の都市となりました。その事で東京から読売、毎日、朝日新聞社が小倉北区に西日本地域をカバーする西部本社を設立。それぞれの会社で大型輪転機械が止まることなく動き九州から西日本全戸に新聞が送られるようになりました。
昭和60年から70年代は高度成長時代で、その波にのまれた日本国が最も栄えたときでもあり、その波に乗り釣りブームが繁栄されました。

1972年会社旅行、左端、会社一番人気の横川と私の開いだに空閑課長。上左、空閑課長と石場爺ちゃん
私は学生時代に少し覚えた釣りを、もっとレベルの高い釣りを、空閑師匠から教え込まれました。仕事イコール魚釣りが当たり前の吉田印刷所という会社の中で、なぜかしら仕事以外の楽しみを覚えた私。仕事のヤル気も、趣味があればこそ頑張れる。
週末はクロ釣りで遊べる近場の波止に護岸。少し足を伸ばし山陰の波止に磯釣りは、長門市の津黄から川尻岬の磯、良く通いました。師匠や先輩達に連れられて。でも、初心者の私は釣りきらない。その訳は釣り具にタックルが安物。加えて魚釣りにお金をかけない視点がありましたので、そうでもない、なんとなく先輩、師匠とお付き合いでき、その延長にあるのが仕事、会社の親交で得るメリットを考えていました。
ある意味、利己的な若者目線かも知れませんが、これは私が出来る範囲で考えた時でもあります。19才で入社した印刷会社、高専という印刷専門科の過程を得て入社した会社は、社長や専務、そして経営に携わる課長や工場長から特別な視点で見られていた私。その分、変な事できないのはもちろんですが、必然的に仕事の濃い内容を任せてもらったと想います。特に空閑課長からは特別な扱いを受けたと想うのです。
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その一つが、仕事以外の釣りを兼ねた、社会との繋がりを深めるものでした。
20才でホンダN360空冷式の中古の軽自動車を購入しました。通勤用で良く走る。当時では最も優れた軽自動車として人気でした。そのマイカーで通勤を始めると、真っ先に空閑課長が「魚釣りに連れて行け」と言う事で、宮崎県門川沖の大ビロー島の石鯛釣り。ポイントのタツが鼻は名礁で当番瀬みたいなものですが、少しでも海がシケると小さな渡船では瀬付けできない釣り場。5月のゴールデンウィーク、好天気で三連休でもあるので1泊2日の釣り。軽自動車に会社の釣り仲間4人は私と空閑課長に中原、藤崎。夕方7時、若松を出発し国道10号を南下して行く、佐伯市手前の犬飼トンネルまでの山登りの国道はハード。重い荷物に4人乗車の軽自動車が、うねりを上げ、ロー、セコ、サード、トップギアーチェンジを繰り返しながらの運転はハード。しかも運転手は私だけ。午前3時過ぎ門川町、庵川、松田渡船にやっと到着。民宿のような広い土間付きのイロリがある室で毛布をかぶってザコ寝。すると朝4時、松田船長がやって来て「行くゾー」眠たい目をこすりながら30分も寝てない私。先輩達は車の中で少しは寝ている様子で元気がイイのだが、空閑さんが「磯に上がって昼寝すりゃーイイ」とか言ってくれる。ライフジャケットと磯ブーツは空閑さんのお下がりで、ちょうど良い。13ℓのクーラーボックスにリュックサックと竿ケースだけの荷物。底物する空閑さん達は松田船長に準備させていたカメの手、マキエに、ヤドカニと、バフンウニ色々、布バッカンに入れたマキエサを持つ。

中原先輩に藤崎先輩は、ウキフカセ釣りのイサキにグレ、シマアジ釣り。
私は、その隣りで竿を出すつもりだったが、ポンポン船の松田渡船は木造船で、ゆっくり、ゆっくり、煙突から黒い煙りをはいて、力強く進んでいるが、大波を避けながら、いつも波の上を走る。行きはヨイヨイ、帰りは怖い!!
と言うことわざあるが、行くときは張り切って行ける。釣りたい気持ちが先走り、ワクワク感があるのだが、この時の私は恐怖を感じていた。その恐怖が、さらに高まるのが目的地のタツガ鼻の瀬を見たとき。断崖絶壁、その下にある、平たく、畳6畳ぐらいの平地は、高さ7~8mある。その前に小瀬があり、その瀬に続く右側の張り出した瀬に波が当り、磯しぶきを上げている。その狭い湾ドの中の平地に瀬上がりするのだが、木造船が、その瀬に着けるのでなく、波のタイミングを見て、ホースヘッドが瀬にブツかる手前で船が後進する。しないとホースヘッドはもちろん、船が岩にブツかって壊れてしまうのが分かり切っている。船長の腕の見せ所だが、その瀬に上がる釣り人は、もっと怖い。命がけで6m×6mの岩場に飛び乗るのだ。
薄明るくなり、視界が良くなり、周辺が見えている朝の大切な時間。空閑さんがお手本のように磯に飛び乗り、上手。次に藤崎さんも飛び乗った。そして荷物を磯に放り投げる。中原先輩が渡船のホースヘッドに上がり、私が下から先輩に荷物を渡し、それを船が岩場に近づいたとき、放り投げる。その瞬間、ドスンと船のホースヘッドの先端が岩場に当たった音。
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怖い、怖いが、やっと荷物を磯に上げたので、三番手の私が磯に飛び乗る、船が波に乗り、磯場に近づき「サァー飛べ」でも怖くて飛び乗れない。波に翻弄され、船が左右に揺れるので飛び乗るチャンスがない。それでも今、飛べ。船長が拡声器でカンカンに怒っているのが聞ける。中原先輩が「オレが合図するけ、今度こそ飛べよ!!」で4度目、先輩が背中を軽く押して「今だ!!」で、磯に転げ落ちるようにして飛べた。
空閑さんが、すぐに私の手を握ってくれ大丈夫だ。そして、小便がチビッたのが分かる、恥ずかしい状況。しばらくボーッとしている私。何もできてない数時間。気持ちを落ち着け、ウキフカセ釣り。先輩のそばで、やっと小グロ釣り。午後3時までの釣りだったが、波が大きくなりシケてきた。その状況を分かっていたかのように松田渡船が昼ごろ迎えに来た。
今度は、もっと酷い状況。小さな木造船が右に左に大波と戦いながら磯から釣り具を船に投げ入れる事ができたのは、地方の釣り人が3人いた事で、上手に荷物をキャッチできていたからだ。そして藤崎、中原先輩が狭い渡船のホースヘッドにしがみついて乗り込んだ。
今度は私の番。後方に空閑師匠が「上瀧、大丈夫やけ、オレの合図で飛べ」波を利用して船が磯に近づき、磯にブツかる寸前に渡船がバックする。その繰り返しの中で釣り人が狭いヘッドに飛ぶ。中原先輩が、そのヘッドにいて私に合図してくれる。先輩が身構え私を待っている。そして空閑さんの合図で飛んだ。尻もちをついて先輩と二人、船に転げ落ちたが、地方の釣り人達が私達を支えてくれた。空閑さんが無事、乗船しての帰りは長ーィ。門川の磯波は玄海灘を越える太平洋の大波が陸に向かって押し寄せる。船が、その大波に呑み込められたら完全にアウト、本当のシケ前の状況。波の高さが6m。その波の上を上手に船が乗って走るが、波の間に船がハマると、波の底から上を見ると津波の高さ、二階屋の上から急に地上に落ちる恐怖。上、下の落差を感じながら進む渡船。陸や港が見える訳でもない大海の恐ろしさ、恐怖を味わっている。そのような出来事を数ヶ月すれば忘れる私達。

磯釣りを教えてくれた空閑師匠の遊びは魚釣りだけ。それも、とことん極めるウキフカセ釣りに石鯛釣り。完全無欠の磯釣り師。私は、そこまでの釣り人にはならない小心者。第一、金欠病でもあるからで、生活する事の方が大切と想っている。だから空閑さんは無理に押し付けない。その上、中古の釣り具を良く頂ける。その見返りが磯釣り、魚釣り。そして仕事を早く覚え一人前になる事。入社して、ほとんどの職場を体験した。しかし3年目でA2判のパールという印刷機械の機長になった。その中古機を使うのだが、空閑さんが付っきりで色の作り方、混ぜ合わせ、機械のオーバーホール、修理から上手な使い方を手とり、足とり教えてくれた。そして、やってはいけない印刷ミス。原稿通りの色違いや、営業マンが納品した印刷物が返品をくらう印刷ミスを私は数度おかした。しかし、社長や専務、営業部長から一切、私にとがめなく、全て空閑さんがその事を受け止めてくれた。
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その分、私は仕事には情熱を持ち必死で働いた。先輩から文句を言われてもヘコムほどバカじゃない。いつも空閑課長が応援してくれた。可愛がってくれた。私を息子のような見方をしていたかも知れないが、そのときは甘えた。空閑さんの奥様は目が大きく奇麗な方で、すごーく優しい。私は師匠の家に食事を良く誘われた。二人の息子がいたが小、中学生。私の事を「兄さん」と呼んでくれたので、いつも感謝のプレゼントは忘れなかった。


そして奥様のお兄さんになる山口県下関市川棚には、マイカーがない19才のときから泊まり込みの魚釣りを空閑課長から良く誘われた。土曜日の夕方、国鉄若松駅→折尾→小倉→山陰川棚駅、タクシーで石橋さん家で2時間30分かかった。私は重い釣り具を持ち、先輩の後をついて行くだけ。東西南北、全く訳も分からないところ。地図さえも見てない家。行くと下関市役所に勤める石橋さんと優しそうな奥様におばあちゃん。そして可愛い女の子二人は幼稚園に通っているとか。早速、宴会が始まる。中原先輩、萩原大先輩に空閑さんが久しぶりとかの大宴会。酒が入っているので私はNO。川棚寿司やテンプラが多く入ったオデンに大根にアツアゲ、コンニャクは、ばあちゃん手作りとかで、大食の私は食べ放題。空閑さんが「上瀧は酒が飲めんのでジュースやってー」と奥様に言ってくれると、オレンジジュース瓶を開け、コップに注いでくれた。可愛い女の子が二人、私のそばで「お兄ちゃん」とかで、一緒に食事ができる喜び。なぜかしら空閑さんと奥様の家系は、みんな目が大きく、美人で可愛い子供達。なにゆえか分からないが、いつも空閑さんが私を魚釣りで誘い、家族的な所まで突き合わせてくれる。明日は油谷湾で、船を借りてシロキス釣り。次の日は湯玉漁港に近い犬鳴き磯で、ウキフカセ釣りでクロ入れ食い。もちろん石橋さんも下関市役所の下関磯釣りクラブの会員で釣りが上手。私が釣った前日のシロキスは、その日の夕食でサシミにカラアゲ。マゴチとベラ、チヌはアラ煮で、食卓は魚で溢れていたが、石橋のばあちゃんが料理上手で次々運んでくれる。このとき初めてアラカブの味噌汁を食べた。そして2日間の釣果はみんな石橋さん家に寄付。クーラーはカラッポだったが、そのクーラーボックスにトマトにナスビ、ニンジン、キュウリが入り、重ーィ。みんな、ばあちゃんの畑から採れたもので、楽しい週末を過ごせた。
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そして、佐賀県佐賀市にも空閑さんの奥様の妹さんが住んでいる。妹さんは佐賀タクシーの運転手。30代ころの若い女性が一人っ子で生活しているのは、ご主人が早く亡くなった事。でも、明るい方で私は空閑課長と中原、萩原先輩と二度も訪問した。いずれも連休を利用した2泊3日の魚釣り。最初は私のマイカー。二度目は空閑課長が免許を取り、始めて買った三菱コロナ・クーペという普通車。中古車だが普通車は、やはり広い。荷物が後部ハッチトランクでたくさ積める。行きは空閑さん。帰りは私が運転するのだが釣り場めぐりは土地勘が詳しい空閑さん。釣り場は全て有明海の海辺で、潮が引いたら河水の水路しかない泥地底ばかり。そんな釣り場でウキフカセ釣りのチヌ釣り。当然、釣れるのはキビレチヌにセイゴぐらい。私は投げ釣りでムツゴロウの入れ食い。そして30㎝~40㎝サイズのハゼグチという大物が良く釣れた。オマケにセイゴ、フッコが虫エサの投げ釣りで釣れる事を知っていたので、投げ釣り専門で私は酒の魚を大漁した。もちろん、これはオマケみたいなもので石橋洋子さんが佐賀名物、鮒寿司を料亭から特別注文し、テーブルに並べてくれた。他に川カニからイカ、タコのサシミは私の大好物。その他の魚は正直、食べ切らない。釣れた魚もすぐにサシミにする萩原の親父は魚をさばくのが上手。ハゼグチの串刺し焼き、私が釣った55㎝のスズキは魚拓にし、すぐにスズキのアライにサシミ、味噌汁、色々で2日間、皆で酒盛り会。私は酒が飲めないのでサイダー。そして佐賀市内の朝の散歩もした。
始めて知った佐賀の城下町。これも空閑さんが招待してくれたから知る事ができた。私と空閑さんのストーリーは、ほとんど魚釣りがメーンだが吉田印刷所と繋がる企業の中で、魚釣りで築ける企業や会社もある。私と空閑課長は自費で、その方達と繋ぐ接待釣行を多くした。その事を書けばキリがないほど多い。特に印刷会社はインキと紙、印刷機械のメンテナスなど幅広い付き合いがある中で、私は空閑さんの弟子として良くこの方達と釣りをした。

私は24才で洋子ちゃんと結婚した。空閑課長は工場長となり、柚木営業部長が私の結婚披露宴に出席し、会社の上司、先輩が多く参加した。妻の洋子ちゃんの兄さんは釣り仲間。私が25才のとき海洋磯釣俱楽部を結成し、空閑さんは顧問として会員になってくれた。その数ヶ月後、まさかの他界。今から、もっと教えてもらわないと、いけない事、沢山あるのに、なぜ。が私の疑問。印刷所という180人あまりの会社の中で、釣り人が30人ほどいた。1976年は日本国経済が最も発展した良き時代だった。結婚して若松に住む私達。若松には釣り具店が8店あった。次の年、九州礒釣連盟、北九州支部、若松地区は16クラブ360人あまりの会員。それぞれのクラブの事務所は全て釣り具店。海洋磯釣俱楽部は、はまや釣具店。若松磯釣倶楽部は伊木釣具店。東亜若潮会は若佐屋釣具店。ダイナミック若松は矢野釣具店。他、脇ノ浦には瀬戸釣具店。二島には釣り具のエース店などあり、この時代は釣具店から釣り具産業が急発進する時代を迎えていた。その一番良いときに私の恩人たる空閑さんが亡くなった。今、想えば悲しい社会に翻弄されていたようで、自己を犠牲にし、他人を幸福にさせた人望は計り知れない49才の人生だった。若松区大井戸町の寺に「機関誌
海洋だより」置いて手を合わせ、北九州市小倉北区湯川に住む奥様宅ファミリーに数度通い、懐かしい想い出話しできた。また、山口県川棚町の石橋さん家に洋子ちゃんと数度訪問した。
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