mujik ポール・モーリア (渚のプレリュウド) No.4
2025.5. 私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」No.4
初夏になりました。皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様は毎日大変お疲れさまです。そして学校から社会人になった皆さんは本当の意味での、人生の始まりとし、心よりお祝い申し上げます。その上で多くの人々と繋がりを持てる趣味の世界を持つと更に人生とか、Life、豊かな遊びが楽しめます。私の社会人としての一歩は会社を知り、仕事を身に着ける事、その仕事を学ぶ為に先輩達と遊べる趣味の魚釣りがありました。
たかが魚釣りでしたが昭和時代は国民全体が豊かでなかった、会社イコール毎日の仕事をシッカリ頑張らないと自由なLifeが築けなかったのです。私は幸福になる為、会社人間であり続ける決意に、趣味を活かした豊かなLifeを構築し、両得なアクションプランの中で生き、
利己的な生き方を考えないと幸福はない
、事を社会の中で教えられたのです。
この稿を書き、パソコンしていると多くの人々が私の後押しをしてくれた事を知ります。私の生き方を正しく教えてくれた「先人の恩師・親友シリーズ」 に登場する方々は私に沢山の恩恵を下さいました。全て趣味の魚釣りから繋がる方です。その上で少しばかり違ったテーマでお話しを勧めてまいります。
今のJAPANの現状です。平和なライフと社会が上手に繋がれば良いのですがJAPANの社会では問題の多いテーマを、いくつもかかえています。私達一人一人の責任が増え、幸福を求める人間社会、それにも増して南海トラフの地震に津波、今年3月に発表された北海道東岸の十勝地方にはマグニチュード9の大地震が今後10年か20年後に必ず起きると気象庁、有識者による発表がありました。交通事故もそうですが初夏から梅雨にかけ、水害や台風などの災害が多く発生するJAPANは、いつ、何処で、何が、我が身に圧し掛かって来るか、想定しながら毎日のライフがあります。それに趣味の海難、遭難事故も、私が知る限り毎年のように死者に大ケガが九州・山口地域で発生しております。その上で皆さんの生きるパワーを少しでも本文で活かされる事を望みます。
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1985北九州若松港&若戸大橋、洞海湾は私の第二の故郷、この街で多くのストリーが生まれた
さて、テーマの「私の生き方を正しく教えてくれた先人の恩師、親友シリーズ」№4で紹介する方は、私が釣りを覚えた20代の頃より身近に住んでい
た若松敬竿さん、本名は山本〇〇さん
です。小倉生まれの私が北九州市若松、吉田印刷所に通うとき、すぐそばに敬竿さん、ご夫妻が経営する喫茶店に写真館があったのです。若い私は気にも止めない仕事人間です。この事を意識し始めたのは月刊釣ファーンに原稿を書く事より知りました。
敬竿さんと最初の釣行は遠足でした?。なぜなら、私は初回で紹介した吉田印刷所の釣りキチ恩師、空閑敏明さんに連れられ、若松区役所前にあった伊木釣具店が主幹する「親睦会」に無理やり入会したのが始まりです。何も分からない、釣り初心者の私、やっと磯釣りで宮崎県門川沖の大ビロー島、小ビロー島や大分県鶴見、米水津の磯など、渡船を利用した磯釣りを年5度ほどしていた時代、もちろん私は独身です。そのレベルから師匠の空閑敏明さんが釣りキチで、弟子の私は無理やり伊木釣具店の親睦会に入会登録されました。それで年4度の釣行会が始まります。貸し切りバスに釣り具をギュウギュウ詰め込み、残った荷物はトラックで運ぶ釣り場は宗像大島です。定期船を利用し港に着くと、半分がマイクロバスとか軽トラックで裏磯に行きましたが、私と師匠は今の
海釣り公園施設
がある外波止港内の釣り。近くに敬竿さんと福浦朱竿さんの釣りを見ながら、空閑師匠と隣りでチヌ釣り。3月頃だったので寒チヌ狙い。100mぐらい間をあけ、静かに二人の釣りを遠目で見ながら、空閑師匠が二人の釣り方を観察し釣りをします。私は初心者、グラスロッドは師匠のお下がりの
ダイワ大島2号5m
ロッドに小型のアブのスピニングリール。ライフジャケットも磯靴も、みんな先輩や師匠から頂いたものばかりで、エサとハリスは通いの若松大井戸町の、はまや釣具店で買った安物ばかり。ジャンボアミに赤土を少し入れ、粘りをだすマキエサに砂ゴカイ虫が付けエサの私です。師匠は若松えびす市場で小エビを買い、ジャンボアミ漬けしたエビのエサ、色々。それで大島でウキフカセ釣りのチヌ釣り?。私は魚が釣れたら何でもイイので、チヌという魚にこだわる師匠に理解できてないのです。それで、釣り場に着いて30分もしない内、福浦さんの軟らかい竿が曲がりタモ入れした魚は銀鱗が眩しいチヌ。その隣りで若松敬竿さんも竿を曲げ、クロダイ40㎝前後をクリアーしながら、仲良しの二人がクーラーをイス代わりにし、タバコを吸いながらの釣りスタイル。本当に静か。その外波止の犬走り上の外洋では大勢の釣り人が、クロにウミタナゴ、カサゴにメバルが入れ食いで、竿がドンドン曲がり楽しそうです。この当時は魚影が濃い宗像大島です。そんな状況でも港内を釣る中年釣り師二人。私は22才。空閑師匠は40代で、同じぐらいの釣り人が次々ロッドをヒン曲げ、スカリにチヌを入れている状況見て、どんな釣り方をしているのか知りたくなります。しかし引っ込み思案の私は、その勇気がない。師匠が遠目でジロジロ二人の様子を観察しています。
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1981年ごろの筑前大島外波止、海洋磯釣俱楽部、18人の大島釣り場掃除の一コマ
福浦さんは小型棒ウキ。敬竿さんは丸いウキ玉2つ。マキエサはジャンボアミにヘラブナの集魚剤を混ぜ込み、サシエサはモエビを使っている様子。空閑師匠も軟らかいチヌ竿でクロダイをタモ入れ。私はクジメとカサゴが数匹が今日の釣果。因みに私に、もう一人のウキフカセ釣りの恩師は会社の
内田小二郎さん
、空閑師匠と親友の釣り人ですが親睦会に入っていません。彼は吉田印刷磯釣俱楽部の会員。内田さんもウキフカセ釣りが上手でサシエサは田エビ。マキエサも黄色の布バッカンにジャンボアミとフナやコイを釣る集魚剤を加えクロ、メイタを良く釣ります。ただし内田さんは右足が義足でハンディを背負っています。それでも私と一緒に波止釣りで遊んでくれる優しい内田さんです。私が本格的にウキフカセ釣りを学べたのはこのお二方。空閑師匠は磯釣り専門。底物釣りもヤル、本当の釣りキチ。そんな師匠のおかけで伊木釣具店主催の「親睦会、筑前大島磯釣り大会」は対象外魚の私はボウズ。そして55人乗ったバスの中で抽選会はヘラブナの集魚剤が当たりました。師匠はチヌ鈎。年会費1000円で、このような釣行会が無料。ただし大島の定期船の船賃は自費。空閑師匠はクロダイ1匹にウミタナゴ5匹、検量しません。この当時の伊木「親睦会」は対象魚だったら何でも検量してくれますが、空閑師匠は福浦さんと若松敬竿さんの釣り人目当てで入会したのです。それに全磯連九州支部、若松磯釣倶楽部の大勢が、伊木親睦会に入っているので、この方達の交流を考えていた空閑師匠です。
昭和40〜平成初期まで
伊木釣具店に若松磯釣倶楽部の看板
ありましたが、いつしか九州新潮会に変わり、私達の吉田印刷磯釣クラブも海洋磯釣俱楽部に変え、看板を掲げてくれた大井戸町の
はまや釣具店
です。その頃の釣具店は、どこの店でも週末は、ごったがえすほど釣り人が多く溢れ、釣りエサから釣り具が良く売れた良き時代でした。そんな中、空閑師匠は若松区役所前の伊木釣具店で月刊
釣ファン
とか、月刊
九州の釣り
、月刊
西日本の釣り
という小雑誌を良く買っています、それを読ましてくれる空閑師匠です。私は雑誌は釣りポイントを知るだけのものと考えていました。しかし
月刊釣ファンに若松敬竿先生と福浦朱竿先生の記事が毎月記載されています
。それで師匠は、この本を毎月買っているんだ、と想ったのです。それに宮崎県や大分県の二人の釣行文を読み、宮崎県の細島に大分県鶴見半島、米水津の磯釣り、屋形島や深島、島ノ浦島も若松磯釣倶楽部のホームグランド的な紹介で、その若松磯釣倶楽部の大会がグラビア写真付きで良く記載されているのを見て、行きたがる空閑師匠に吉田印刷磯釣倶楽部の会員達。私は釣りきらないので運転手役。車の中で内田さんと空閑主任が月刊釣ファンで若松敬竿さんが細島でチヌ53㎝、55㎝、島野浦港でもチヌ56㎝、51㎝。蒲江西野浦のイカダからチヌにマダイ、大物の話しを色々聞け細かい内容は分からない。それにそんな大きな魚釣ってどうなるの?。
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1978年海洋磯釣俱楽部を結成して筑前大島大会、愛媛県佐田岬&正野港はホームグランド。
先輩達に連れられて行く釣具店で知る店には大物魚拓が天井にベタベタ貼られ、渡船基地でもデッカイマダイに石鯛、メジナの魚拓。それを見て私は、こんな大物、釣りたいとは想ってない。第一そのようなタックル持ってない。それに金欠病で魚釣りのお付き合い、したくない!! これがホンネ。それでも師匠が読み捨てる月刊釣ファンは大切に頂き、参考書として保管している私。そして私が一番好きなのは淀谷一竿さんと向井吉夫先生の記事が好き。分かりやすい文章と、投げ釣りポイントが多く紹介しているので、釣り仲間の多くがこのお二方を支持する。それで難しいウキフカセ、二段ウキ釣法の若松敬竿さんの長ーィ文章には、ついて行けない。福浦朱竿さんの文章は短く、釣りマナーとか磯連の内容が多くあり、正直、興味ない。それより田川市の向井吉夫さんの稿が一番好きだった。二番目が全日本サーフ所属小倉サーフ事務局長の畑間光男さんのキス、カレイ、アイナメのポイント、仕掛け、色々に淀谷一竿さんの釣り場めぐりのポイント紹介、これが大好き。 読者は身近に感じる釣りスタイルに釣り方と仕掛けポイント、エサの情報が一番ほしいので、初心者的な釣り人をリードしてくれる執筆者を尊敬する。それで若松敬竿さんはその中に入ってない。後になるが高園満さんも、その一人だが、その後まさかの天界になるとは夢にも感じてないバカな私。伊木釣具店主管の親睦会では必ず福浦さんと若松敬竿さん、伊藤芳樹さんに、歯科医の中村さんのコンビが面白い話しをバスの中でしている。彼達はいつも最前列。私達は後部でその話しを聞く。又、若松港からチャーターした客船に60人以上乗せて行く小倉の馬島、藍ノ島、蓋井島にも行った、この時代、渡船がなかったからだ。それに漁船が定員7人を無断で白島に渡してくれた事もある伊木釣具店主管の親睦会。全て内緒の釣行会?。そして藍ノ島の釣行は、ほとんどの方がアイナメ、クジメ、メバル、カサゴ狙いで総重量10㎏とか15㎏。大きなアミネットが破れた釣り人がいた。私と師匠は、いつものように福浦さん、若松敬竿さんの後を追った、彼達はウキフカセ釣りチヌ大漁。でも師匠が数枚。私はメバルと小グロが数枚釣れた。その中で脇ノ浦から蓋井島に二度ほど親睦会の大会で参加した。玄海灘の荒波に船酔いし二度もボウズ。港に着いたら親睦会の半分ほどが予約していた漁船で磯釣りしていたが、このときは師匠と二人で波止釣りし、小グロを良く釣ったが、チヌは釣れなかった。
そのような伊木親睦会との釣行は7年続いた。その後、吉田印刷磯釣倶楽部が解体され海洋磯釣俱楽部を新に組織したので伊木釣具店主管の親睦会を退会した私達。その次の年、全日本磯釣連盟西日本支部から離脱した若松磯釣倶楽部が、新に出来た九州礒釣連盟に入籍し、私達の海洋磯釣俱楽部も九州礒釣連盟に入会登録された。
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1979年九州礒釣連盟若松地区響灘大会で福浦朱竿さんから若松坊主会の藤田さん。入賞者
これより九州礒釣連盟6000人の会員をまとめる組織、執行部、福浦さんや若松敬竿さん、若松地区長を任された伊藤芳樹さんなど、北九州市若松から多くの釣り人、有名人が排出された。又、若松にはダイナミック磯釣連合という、九州に30クラブ以上を持つ組織がありましたが九州礒釣連盟に吸収合併されます。その中にジャパンダイナミック戸畑をお世話していた高園満さんも九州礒釣連盟の会員となり、月刊釣ファンの常任執筆者となった方です。若松敬竿さんと親友の存在でした。私が所属する海洋磯釣俱楽部も九州礒釣連盟組織の一部とし北九州支部、若松地区の中核となるのですが海洋磯釣俱楽部は名前だけ、会員の半数は投げ釣りを得意とし、全日本サーフに心代わりする仲間も多くいたのも事実です。正直、私も投げ釣りの方が得意かも知れません。しかし月刊釣ファンに執筆依頼を受け、毎月投稿するようになると投げ釣りより、ウキフカセ釣りをする方達とのお付き合いが始まるのですね。当然のように、その釣りスタイルに関わってくるとスポーツのテニス・ガットで有名な、㈱ゴーセンが月刊釣ファン、河村博社長とタッグを組み、九州礒釣連盟を抱き込み、都留正義会長がリーダーとなり北九州市小倉の
ホテルニュー田川
で九州礒釣連盟の各県支部長が集まり、釣ファンの若い執筆者達も15人ほど参入した集いがあり、当然のように私も㈱ゴーセンの、
つり糸モニター役
で式典に参加し、
LKG九州のメンバー
に入りました。若松敬竿さんや高園満さんも招待されていたと想うのですが、つり糸の特許を持つ大企業の㈱東レ系があったので、お付き合いだけの人もいました。当時、ウキフカセ釣りで有名な釣り人、小倉浮竿さんと、ここで知り会い最後まで小倉浮竿さんと㈱ゴーセンをPRした私です。このお話しは1980年代で、釣り糸メーカーは㈱東レを真ん中にし10社程度、今では100社以上あります。その事を少しずつ知り、釣界の有様が変化してゆく過程にドップリ嵌る私は、まだ先の事になります。
私が住む北九州市若松、吉田印刷アパートで洋子ちゃんと新婚生活を始め浜町から近い、明治町で喫茶店と山本写真館をしている若松敬竿さんの事を知りました。一度も訪問した事ありませんでしたが、あまりにも敷居が高い方であると同時に、私の恩師、空閑敏明さんが最も尊敬していた釣り師である事。加えて何処の釣り具メーカー、企業にも属さない堅い意志を持つ方で、遠ーィ存在の方と仲間内で知っておりました。九州礒釣連盟、若松地区、会員300人以上の新年会、忘年会が毎年あります。保里会長と私も出席するのですが宴席の前の方に若松磯釣倶楽部の有志が囲っていて、いつも遠目の私達でした。そして月刊釣ファン執筆者の中で若松敬竿さんの二段ウキ・チヌ釣法について、テーマが持ち上がり、座談会形式で10人ほどの熱烈なファンが集う記事が記載されました。その内容が数度にわたり、月刊釣ファンの中で紹介され、興味深い内容で私は読んだのです。
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1978.1.月海洋磯釣俱楽部の新年会、総会は若松二区公民館で奥様が料理し混じる宴会でした
若松敬竿さんを慕う、多くがウキフカセ釣り、二段ウキ釣法愛好者。その中に田中釣心さんも含まれているようで、釣心先生がウキ製造会社、㈱釣研を立ち上げる前の、前座が若松敬竿さんと覚えています。もちろん田中釣心さんも北九州市八幡黒崎で喫茶店経営者であり、ジャパンダイナミック黒崎の会長さん。月刊釣ファン、島本修一社長が立ち上げたヤング鬼笑会のメンバーに清水隆男さんも、田中釣心さんと同じクラブ。合わせて吉田〇〇さんも加わり、当時のジャパンダイナミック磯釣連合の強さを見るのです。しかし、ほとんど底物釣りメンバーが多かったのです。ダイナミック戸畑の高園満さんも本来、底物師。しかし何故かしらクロダイに魅せられ、ウキフカセ釣りの方向性に進んだのは、この事がきっかけかも知れません。若松敬竿さんイコール若松磯釣倶楽部も底物釣り師が多く、二刀流するメンバーが半数以上いましたから、会員数も40〜50名いた昭和時代でした。そのリーダーが福浦さんと若松敬竿さんと知ってはいましたが青年時代の私は、単に憧れを抱く存在の方でした。しかしながら、釣ファンの執筆者とし24才から始めた私。釣ファン創立者の河村博さん、二代目の島本修一さんのときが一番激しく動いたのです、上手でもなかったウキフカセ釣りで。月刊 釣りファーンが取材目的で「ヤング鬼笑会」が再結成されました。元の発案者である菅沼定一さんに向井吉夫さん、これに若松敬竿さんや執筆者の多くがウキフカセ釣り師。しかし活力が衰え社長も若い島本修一さんがなった事で「鬼笑会」から再結成された「ヤング鬼笑会」となり執筆者の若い20代〜30代が選ばれ、私も会員となり五島、四国、宮崎、大分、長崎の磯釣り遠征釣行が6年ほど続きます。必死で食らいついた私のような凡人。先輩の若松敬竿さん、田中釣心さん、高園満さん、菅沼定男さんの弟子達が、月刊 釣りファーン、ヤング鬼笑会を盛り上げてくれますが、私は後方で、すがるだけの釣り人でした。責任感の中で河村博社長の奥様から可愛がられたから?。それとも九州礒釣連盟とかジャパンダイナミックという巨大な組織の一員との関りをチョットだけ触れ合いながら助援してくれる大先輩に恩師がいたから付いていけたと想うのです。これが下地となり釣り人生が大きく変革してゆくのです。島本社長から田中釣心先生の手作り円錐ウキを6個貰った感動。発案者は若松敬竿さんのアイディアに、もう少し手を加えたウキ、色々ありました。6度ほど通った釣ファンの忘年会に新年会は会社の二階の室。大先輩達が、うじゃうじゃいる中、話しに加わる勇気が全く無い私。オマケに宴席。マイカーで来ているので酒は飲めないので尚更、引っ込み男。それでも九州礒釣連盟や北九州支部役員の和田さんに菅沼さん向井吉雄さんにヤング鬼笑会のメンバー、㈱ゴーセンチームの小倉浮竿さんに芦屋航空自衛隊の横井さんから私が今、釣ファンに書いているファミリーフィッシングの稿を大絶賛してくれる。「若い方は新しい釣りの形を作り、仲間を増やす事が大切」と教えられました。
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1980.4月 海洋磯釣俱楽部5周年記念大会 山口県黒井漁港 保里会長、45人参加
私は出来るだけ釣ファンの稿を毎月、北九州市小倉北区の本社に届ける事をしました。若松から小倉菜園場まで30分で行けるし、何より、おもてなししてくれる奥様や島本社長に私と同じ年の尾形さんや松崎さんがいたからで、ヤング鬼笑会のチームがここで盛り立ててくれる。それに話し上手の若松磯釣倶楽部の木原さんに会え、すぐに上五島の話しに、四国武者海の荒磯釣りに、底物から上物釣りまでのヤング鬼笑会のプログラム作りが始まるのです。木原さんは北九州青果市場に勤務している方で魚や生活に欠かせない食品の事。何でも卸値で買ってくれる方。でも私達には不向き、量が半端ないくらい購入が必要。それで木原さんと一緒のヤング鬼笑会の釣行に、渡船や民宿に木原さんが持ち込む青果のプレゼントがあった事を後で知るのです。全て出前よと島本修ちゃんの話しで、ヤング鬼笑会のメンバーのほとんどが店を持つオーナーばかりで、とてもついて行けない。でも義理人情に弱い私は付いて行くだけ。その事で多くの釣り場を知り、同世代の釣り師から学ぶ釣り以外の交際術知りました。その中で少しずつ若松敬竿さんの事を色々な釣り人から聞けたのです。「ジョーさん(上瀧)、すぐ近くに住んでいて、敬竿さんの喫茶店、行った事ないの?」と良く言われるのです。口下手な私が、ずうずうしくも、用もないのに行けない。何せ、九州釣界の有名な釣り師であり肝心の
ウキフカセ釣り二段ウキ釣り法
を全く理解できてない私。それよりも九州礒釣連盟、会長の都留正義さん家に行く方が、よっぽどイイ話しが聞けて楽しめる。何せ、私と同じような投げ釣り、磯釣り、波止釣りの情報を頂けるし、ハートがデッカイ親父のような方。北九州支部長の薮田敏郎さん家の会社にも良く通ったが、こちらも都留さんと同じ雰囲気で話しがしやすい。そして若松にある7つの釣具店や小倉の釣具店に門司の釣具店、店長から色んな話しが聞け、情報を教えてくれるメリットに楽しさ。このときは北九州ポイント店知らないレベルです。しかし、昭和から平成に入って来ると北九州の釣具店が半分ほどになります。ポイント店が各地域で繁盛してきた証拠によるもので、私は若松、はまや釣具店にトップ釣具店が主です。
そして、まさかの事態が起きました。月刊釣ファン、三代目社長、島本修一さんが突然引退。後任にまさかの若松敬竿さんになった事。これには驚きました。色々な事は知らないのですが、敬竿さんが月刊釣ファンの社長、兼、編集長になった事。しかし常人の私には理解できません。ただ、常任執筆者として毎月、原稿を届けるだけ。若いスタッフがいて、始めて敬竿さんの奥様が事務服姿でコーヒーを入れてくれました。甘い美味しいコーヒーで、原稿を持って行く行為を素直に出来るようになったのは、敬竿さんが親しみを込めて「ジョーさん」と名前を言ってくれる。あるいは「上瀧さんの稿は素晴らしい」とホメてくれた事。特別扱いされているような気持ちで、おもてなしを受けたのです。
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1985.6月 九州礒釣連盟若松地区大会は若松響灘一帯、挨拶する新任の下村要一会長、入賞者
その後、
海洋磯釣俱楽部20周年記念誌の原稿依頼
お願いすると、すぐに書いてくれました。社員のヤング鬼笑会の松崎さんも書いてくれた。驚いたのは若松敬竿さんの稿に、海洋磯釣俱楽部初代会長の保理剛太郎さんが、まさか若松高校ラグビーのキャプテンで同級生とあった事で、随分前から敬竿さんは私達の事を知っていたんだ、と想ったのです。若松敬竿さんは身長180㎝ごろでデッカイ方。それに口数が少ないと想っていたのに、釣ファンに原稿を届けると一番に挨拶してくれ、すぐにコーヒーを注文してくれる。おっとりして優しい笑顔に、親身になって話しが聞ける方。親父ぐらいの方だが、こんな風に話しがしやすいのだったら、もっと早く親交を深めれば良かったと反省色々。やっぱり九州釣界をリードするような方は、こんな方でないと纏めきらない。それに多くの人々から先生と呼ばれる釣り人は少ない。釣りのスタンスは違うのだが、こんな風に接し、始めて若松敬竿さんの人望を知る事ができたのは敬竿さんが月刊釣ファンを切り盛りする平成10年ごろです。それ以上のお付き合いはないと言うより、あまりにも存在感が高く先輩師匠とか言う立場でない私。でも釣り人の心を優しく掴み取れる魅力、大人の魅力が身体からにじみ出る人は敬竿さん以外にありません。それでも、このような小誌で紹介するのは口惜しい。もっともっと大きな存在人であると想うのですが、彼の考え方、生き方は、派手な人生でなく、落ち着いた、静かに釣界を去りたい、そのような兆しを見て取れた。
私と若松敬竿さんとのお付き合いは、月刊釣ファンを通し、原稿を手渡しできた5年ほどで終わり。四代目の編集長が㈱釣研に勤めていた中島さんに変わり、大きく釣ファンの内容が様変わりしたので、数年後、私の稿は使われなくなりました。当然のように定年を迎えると少しずつ社会と切り離される。いつまでも青年ではすまされない現実。
月刊釣ファンも社員10名で生きる為、色々な知恵をふり絞って生きながらえる。古くさいシニアの考えでは続かない。何せ、印刷所もアナログからデジタルに移行し、ドンドン印刷所が消えてゆく。北九州市にあった毎日、読売、朝日、西日本西部新聞社が福岡市に移転してゆく中、下請けしていた中小企業の印刷会社も当然のように消える。そして、紙文化からデジタル、AIの時代に入ってきた現在、とうとう一昨年、月刊釣ファンが消えました。2000年初期、小西和人さん(元・全日本サーフ会長)が週刊釣りサンデーを大阪より出版されていたが、釣り雑誌の価値観が失われる未来像を見据え廃刊します。私も小西和人さんから依頼された原稿はキス、カレイ、イシモチ、対馬、平戸、崎戸大島、色々11稿が単行本に記載され、2010年は月刊釣春秋や月刊釣り紀行も廃刊。そして2020年、週刊釣り太郎も消え、最後の2023年、月刊 釣りファーンがコンビニから消え廃刊しました。九州釣り文化を築いた月刊釣ファンのお付き合いは38年ほどありました。
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1980.11.ヤング鬼笑会、上五島石鯛釣り&蒲江屋形島イカダ磯のクロ釣り
その中で若松敬竿さんとは6年ほど釣ファンでお世話になり、退任後、若松で静かに去った、と九州礒釣連盟、下村要一会長より聞きました。釣界に触れず、静かに去って行く考えを全うされた超有名釣り人を、私はJAPAN釣界の大先輩として手を合わせました。何もできなかった私。九州釣界に翻弄され、趣味の釣りに没頭していた良き時代に若松敬竿さんと知り会え、多く学んだ私。私の勝手な想い込みかも知らないが、同じ若松人として16年、小倉に移転して18年続けられた月刊釣ファンとの想い出、投稿記事は切り抜きとしてファイルに納めているが、私の稿を数多くカラーで再現してくれたのは若松敬竿さんだけだった。愛が深い人情の厚さに圧倒された偉大な親友を、また失った。敬愛。
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若松敬竿さんはじめ釣具企業皆さんの応援で1997.5.海洋磯釣俱楽部 創立20周年記念誌 発刊
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若松敬竿さんから寄せられたお祝いの稿、1997.5.海洋磯釣俱楽部 創立20周年記念誌 発刊
皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様には、毎日大変お疲れさまです。
皆さん、こんにちは。お仕事に励まれている皆様には、毎日大変お疲れさまです。
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